漢詩とか。

松下緑『漢詩に遊ぶ 読んで楽しい七五訳』を読む。
なるほど、井伏鱒二が「人生足別離」を「さよならだけが人生だ」と訳し、
それを太宰治がいつも口ずさんでいた、のはまあ良いとして、
また、漢詩には七五調で訳するとしっくりくるものも中にはあるだろうけど、
あまりに普遍化するのはどうかと思わされる。

たとえば詩経の「桃之夭夭」を「桃はいきいきその実はつぶら」などと訳しているのが、
どうもなあ。
あまりやり過ぎると、七五調というやつは、演歌か童謡みたいになってしまう。
戦前安易に七五調が使われすぎ、
それが戦後の演歌にも残ったのだ。
その危険性を知った上でやらんとかなりやばいと思う。
漢詩を詩吟にしてさらに七五調にすれば日本人にはより受け入れられやすいのだろうけど、
私は元々和歌が好きだから、漢詩に和歌のようなものは求めていない。
漢詩は漢詩、和歌は和歌として楽しみたいのだ。

漢詩は定型詩で韻を踏んでいるのだから、むしろそのあたりの韻律を残す形で訳した方がいいのではなかろうか。

実は昔[オマル・ハイヤームのルバイを七五調で訳したこと](/?p=6976)があって、
忠実に訳してもあまりおもしろくない、もとのイラン語から訳すならともかく、
日本語をいじっただけでは意味がないので、かなり意訳したりしたが、
割と元の詩に似ていて良く出来ていると思うのはこれだ。

つちのうつはとつくられし
ひとのいのちははかもなし
ちよにめぐれるあめつちの
かみのまことはしりがたし

[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)に使ってある。

もひとつ、森本哲郎「中国詩経の旅」というのを読んだ。
与謝蕪村に中国の情景を詠んだ俳句があるそうで、それでわざわざ中国に行ってしまったらしいのだが、
俳句と漢詩を並べて書かれると私などは面白いと思う以前に困ってしまう。
和漢朗詠集の前例もあるわけだが。

漢詩は一番短くても五言絶句。或いは七言絶句。
五言絶句は少し謎かけめいているが俳句に比べればずっと具体的。
七言絶句だとさらに説明的になり、連綿たる詩歌というのに近づく。
俳句はときとして禅問答のようであり、しかもわざと難解な句を解釈してみせて喜ぶようなところがある。
日本人はなぜか俳句が大好きだが、私はあまりシンパシーを感じられない。
たぶん外国人に俳句のどこがよいのかと聞かれても私には答えられないと思う。

今更大騒ぎ

竹島のことにしても尖閣諸島のことにしても、今更という気がする。
このくらいのことは李承晩ラインあたりの歴史を少しでも学んでいれば当たり前のことではないか。
韓流ブームというのも嫌韓というのも、極端に振れているだけのことであり、
極端に振れた方がマスコミにとっては話題性があって視聴率が取れるだけのことだろう。
そしてマスコミを見ているだけの特に何の予備知識もない人たちは、なんだか急に韓国人が暴挙に出た、
いったい何が始まったのだろうか、というように感じるのだろう。
今更、何が暴挙なのか。

なるほど日韓友好は良いことだが、それはつまり、他人のアラを見てみない振りをすることでは実現しない。
隣人の悪いところもすべて知った上で仲良くできなければ友好の意味はない。
今の日本の左翼の反応は、日韓友好という最終目標を、結局は困難にしているだけにすぎない。
その理屈というのは、韓国人が今ちょっとおかしなことをしているが昔日本人はもっとひどいことをやった、に尽きるのだが、
韓国人がおかしなことをすればするほど、日本人はもっとずっと悪者だった、
という証拠をほじくり出してこなくてはならなくなる。しかしそれはいずれ破綻する。
右翼だけでなく一般人にも、左翼は外国人に魂を売って日本を冒涜しているとしか見えない。
それがどれほど外国との友好関係を阻害しているだろうか。

雁屋哲の[「ケチカ君」に餌を与えないで](http://kariyatetsu.com/blog/1499.php)にしろ、
大槻義彦の[九段坂に近寄らない](http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-eec6.html)にしても、
常に、結論ありきで議論しているように思う。

左翼が正しいのでもなく、右翼が正しいのでもない。
結論ありきで議論をすることが間違っているのである。
それは思考停止であってもっとも危険だ。
事実は事実としてありのままに直視すること以外に解決方法はないのだ。
私は今の左翼にこそ、今のマスコミにこそ、戦前の軍部の亡霊を見る。
彼らを見ていると我々日本人が戦前からほとんど進歩しておらず、
未来永劫同じような過ちを繰り返し犯し続けるのだろうと絶望する。
この負の連鎖はどこかの世代で断ち切らねばならないのだが。

戦前の右翼が間違っていたのは自分が正しいと信じ切っていたからだろう。
戦後の左翼も自分が正しいと信じ切っている。
何が正しくて何が正しくないかということは、そんなにきっぱりと割り切れるものではないし、
個人の心情とか信念によって決まることでもない。
正しいか正しくないか一意に決まらないことを、一意に決めようとするから、
間違った判断をすることになる。

大槻教授は物理学者なのだからそのくらいのことはわかっているはずなのだが。

降伏の条件と時期

『なぜもっと早くやめられなかったのか』という番組をNHKがやったそうだが、
それってそもそも結果ありきなのよね、結果論だと思うんだよ。
タイトルの煽り文句だけで脊髄反射して悪いが。

他の戦争との比較をしないと、
終戦のタイミングが早かったか遅かったかなんて判断できないと思うんだよね。
結局日本の中の事情だけであれこれ言ってるんだろう。
一番参考になるのはベトナム戦争だと思う。
原爆が使用できないという状況で、本土決戦ならばああいう状況になり得た。

ナチスドイツだって、
ベルリンが陥ちるまでドンパチをやめなかった。

中東では未だに自爆テロが続いている。

アフガン戦争だってベトナム戦争だって、ソ連が、アメリカが圧勝すると言われて、
結局はその正反対の結果になったのだが、
それについてどう思っているのか。
イランが世界を相手に戦争を始めたらどんなことになると思うのか。

他の戦争の事例もすべて調べてみろよ。どういうタイミングで降伏しているか。
どういう条件下で降伏しているのか。
降伏すると決定する手順は。
誰がどう判断するか。
その判断は、正しかったか間違っていたか。
ありとあらゆる事例研究をしろよ。その方が重要だろ?

それらと比較したとき必ずしも日本の降伏は遅すぎたとは言えない。
もちろん、原爆を投下された直後に降伏するということはできたかもしれない。
しかしそれにしても一週間ほどのことだ。
戦争を継続するつもりだったのを急遽降伏することにしたのだから、
そのくらいの時間はなんだかんだでかかるだろう。

だけど番組の中で『なぜもっと早くやめられなかったのか』
というのはおかしい、
もっと遅いこともあり得た、などという意見がでることはないんでしょう。
どのくらい早くやめるべきだったかという議論がただ展開されるんでしょう。

その方がずっと戦争経験の形骸化じゃないの。
戦争の記憶を洗脳教育で消し去りたいだけじゃないの。
戦争を直接自分に関係あることとして考えてないだけだろう。

問題なのは、みなが、特にマスコミが、ただ結果論で判断しようとしているということで、
あらゆる可能姓を考慮せず、
他の歴史的事実と比較することもなく、
判断停止しているということであって、
それこそ日本が戦争をおっぱじめた最大の原因だろ。
原発事故にうまく対応できなかった最大の原因だろ。

あらゆる可能姓を想定して、判断停止せず、結果論で語らないことこそ、
一番重要なことなんじゃないの。

配給

『ローマ人の物語』巻9はガリア戦記に相当するところだが、
ローマ軍の兵士は一日に小麦粉850gを支給されたとある。
根拠はわからんのだが少なくともガリア戦記にはその記述はなさそうだ。

日本軍は、大東亜戦争までは1日に一人米を6合食べていたという。
米1合は150gだから、900g。
そんなに食うのかと思うがそういうものなのだろう。

宮沢賢治の詩では一日に4合食べるというから600g。
これも相当多そうに思えるがたぶん控えめな値なのであろう。
たしかに蕎麦を3束、揖保乃糸だと1袋、
乾麺で300gくらいを一度に食べろと言われて食べられないわけではない。
私自身若い頃はそういう食べ方をしてた。

現代人は主食だけでなくおかずからも相当のカロリーを摂取しているだろう。
昔の人は逆に主食からもある程度蛋白質の摂取を期待していたと考えるべきだろう。

そりゃそうと、ガリア戦記をオリジナルよりも面白く書くのは難しいのかもしれんが、
作者自身そう言い訳しているが、正直ヘルウェティイ族の話のところなどかなりつまらない。
も少しどうにかなるんじゃないかと思うのだ。
さらに言えば、「ヘルヴェティ族」と表記しているが、ラテン語に忠実ならば
「ヘルウェティイ」、より正確には「ヘルウェーティイー」となるだろう。
そんな配慮は彼女にはまったくない。
他の著作を見てもそうだ。
単に現代イタリア語的に読んでいる。
たぶんイタリア語の文献を下敷きにしているんだろうな。

ガリア戦記を現代人のためにケルト人やゲルマン人について補完すればきっと何倍もの分量になろう。
しかし、量は減らしつつ現代的な解釈や補注を加えている。
これで面白くなるはずもないと思うが。
塩野七生はたぶんケルト人やゲルマン人などの蛮族には何の関心も無いのに違いない。
トルコ人やギリシャ人やアラブ人に対する態度と同じだ。

カエサルがどうしたこうしたということを書きたいだけなのだ。
ハンニバル戦記など、
面白い箇所もあるが、全体としてみると、
こういう有名になってから引き受けた長編小説では、
多くの箇所が中だるみしていてもしかたないのだろうか。
『十字軍物語』はさらにひどいと思う。
分野的に他に比較できる作家があまりいないせいだと思うが、あまり批判は聞かないよな。
逆に、彼女は日本人にとっては新しい分野を開拓した、先駆者なのだから、
もう少し良い仕事をすれば良いのにと思う。
もっとうがった見方をすれば、
彼女の小説の面白いところにはイタリア語の良質な文献がある。
それ以外のところは適当に間を埋めているのかもしれない。

光源氏

宣長の紫文要領には

> 光は此の君の諱のやう也。高麗人のつけ奉りたるよし、桐壺の巻に見ゆ。

とある。しかし、wikipedia には

> 「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではない。

などと書いてある。
たとえば岩波文庫「源氏物語」の「桐壺」を読んでも、高麗人が人相を見た、
父の帝が源氏を賜った、とは書いてあるが、この御子を「光るの君」などと具体的に呼んだ、名付けたとはどこにも書いてない。宣長が読んだ写本が異なるのだろうか。

昔の中国では、諱は生まれた直後に付けるのではなく、
六、七才になってから付けるのだそうだ。
諱という風習はもともと日本古来のものではなく、
中国を真似て出来たものに違いない。
少なくとも、万葉時代の諱(人麻呂、赤人、田村麻呂)などではなく、
平安時代の源氏の一字の名前、襄(のぼる)、順(したがう)、挙(こぞる)、貞(さだむ)
などの名は、中国の影響によるものに違いない。

源光(みなもとのひかる)という名前だった可能姓は捨てきれないのではないか。
源氏物語の解釈に本居宣長の説は決して軽んじられてよいものではない、と思う。

いろいろ調べてみるとすぐにわかることだが、源氏物語の最古の写本は鎌倉時代のものだ。
鎌倉時代と言っても、150年くらいの幅があるわけだが、西暦1200年より後だとして、
源氏物語が書かれたのは道長の時代だから1000年くらい。
200年の隔たりがある。
これは恐ろしいことだ。
新約聖書ですら、イエスが死んで50年後くらいにはだいたい出来ていたのが、
それでも本当のイエスがどんな人だったのかはわからなくなってしまっている。
平家物語もだいたい事情は同じだ。
源氏物語のように200年も経つとどうなってしまうのか。

そもそも原文には「光源氏」「光る源氏」という単語はほとんど出てこない。
本文中にも一箇所「帚木」の冒頭に出てくるだけ。
この、「光源氏」という呼び名は、源氏物語が出来てしばらくたってから一般化したものなのだろう。

たとえば、似たような例として、
藤原俊成の古来風体抄がある。
俊成がこんなに長くて体系的な歌論を書いたはずがない。
定家や後鳥羽院ですら短い、または断片的な歌論しか書いてない。
俊成の歌論をこのような形に「完成」させたのはずっと後の世の人だ。
この時代のものは、もっと疑ってかかった方がよいのではないのか。

紫式部がいきなりあのような長編小説を書いたと考える方が間違っている、と考えるべきではないのか。
最初は帚木、夕顔、若紫、末摘花辺りしかなかったのではないのかとか。