馬場始

『明治天皇記』明治二年正月、『馬場始』というものが行われ、そのとき天皇が初めて馬に乗ったらしい。
以後、明治二年には「御乗馬」の記録が頻繁に出る。
明治十年くらいになるとあまりに天皇が騎馬を好むので、岩倉具視が諫めているほどである。

調べると、馬場始は馬騎初(うまのりはじめ)の別称であり、
室町幕府は正月二日、
江戸幕府は正月五日に行ったという。
だが、宮中行事にそんなものがあるはずがなく、
たとえあったとしても天皇自ら馬に乗るはずがない。

天皇が馬に乗った、などという記録があるかすらあやしい。
天武天皇や雄略天皇が果たして馬に乗っただろうか。

本居宣長

wikipedia [本居宣長](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7)
を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、
いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、
その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。
京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。
手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、
堀景山は儒学者というよりは医者であって、
宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。
ニュアンスが異なる。

> 宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

> 紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

> 当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。
そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。
なんだろね。
日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、
日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、
堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。
どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、
本居宣長は、
自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、
堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。
荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。
しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、
その古文辞学的なところとか。
宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。
もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、
宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。
くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。
伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、
わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。
中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、
不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。
小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、
わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。
小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、
本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。
読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。
自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、
ともかく読者というものは業が深い。
私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして
(或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、
宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。
仕方なしに松坂に取材に行った。
それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、
ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、
もう全然書くことがなくなってしまって、
後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、
そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。

宗安寺法螺添削詠草

宣長が和歌を詠み始めた頃に習った師が法螺で、その添削した歌が『宗安寺法螺添削詠草』
として残っている。
宣長が最初期に詠んだ和歌として非常に興味深い。
寛延二年というから宣長二十歳。

> たづね入る山のかひあれほととぎすただひと声はほのかなりとも

法螺も褒めているが、なかなか良い歌。

> ほととぎす夜半の一声なかなかに聞かずはやすく寝なましものを

珍重、と評されている。まあまあ。

> 宇治川の瀬々の網代木み隠れて白波高し五月雨の頃

なんか、こんな古歌があってもおかしくない。
ある意味陳腐でもある。

> 須磨の海人の焚く藻の煙たたねども袖しほたるる五月雨の頃

うーん。
これはどうかな。
作りすぎって感じ。

> 待ち出でて見るかとすれば夏の夜は惜しむまもなくかすむ月かげ

よくできてるが陳腐だよなあ。

> うたたねをねざめてみれば涼しくも枕にやどる夏の夜の月

うたたねをねざめて、というあたりがくどいし、陳腐だわな。
まあ、歌会なんかの社交には適したレベル。

> 鵜飼ひ船さすやかがりの大井川をぐらの山も名のみなるらむ

かがり火をたいているので「をぐら」(小暗い)の名前に似つかわしくないほど明るい、と言いたいのだろう。

> 松高き梢に秋や通ふらむ鳴くひぐらしの声ぞ涼しき

まあまあ。

> 夕立ちの晴れゆく雲の絶え間より入り日に磨く露の玉ざさ

まあまあ。

> 春雨はふりしきれども鴬の啼く音のいろはうつろひもせず

これはなかなか良い。

> 春の夜の闇にぞまどふ梅の花そことも知らぬ深き匂ひに

これもまあ良い。

> 影うつる水のかがみを竜田川やなぎの髪をけずる春風

なかなか良い。ちょっときどってるけど。

> 咲きそむる花を見捨てて行く雁はなほ古里の春や恋しき

うーん。まあまあかな。

> もろともに花もさびしと思ふらむ我よりほかに見る人もなし

こういう歌は多いよね。最初からこんな歌詠んでたんだなという。
香川景樹の

> 世の中はかくぞかなしき山ざくら散りしかげには寄る人もなし

に似てなくもない。まあ含むところは全然違うのだが。

> 散りまがふ花に心のあくがれて分け入る山のほども覚えず

これは良い。

> 散るとても桜はよしや吉野川今を盛りの山吹の花

桜が散ってしまったが、まあいいや、代わりに山吹の花を見ようという話。うーん。

法螺という人、だいたい、珍重、とかいって褒めている。
実際そんな悪くはない。

加齢と酒

長く付き合えば付き合うほど人も町も会社も嫌いになって、
同じ場所にとどまるのが嫌で、
年をとるほどに不寛容になる人は、
年をとるほど自制して、
何事も意図して無感動に、無感覚にならねばならない。

昔はテレビを見ても楽しめていた。

つい最近まで漫画雑誌も読んでいた。

ネットが発達したせいかもしれんが、今は雑誌もテレビもみない。
年をとるにつれて裏が読めて見る気がしなくなるからだろう。
そういう自分のために書いた小説が多くの人に読まれるわけもない。

世の中は進歩しているようでまったく進歩しない部分もある。
進歩を止めた町は、ふたたび進歩しようと努力するのではない。
そういう町にはもう進歩したくない人たちが移り住み始めて、
なんでこんな状態で満足できるのというような状態で平気だ。

全体でならすと世の中はおどろくほど進歩してない。

ていうか、わたしのような人間は、世の中が進歩してないからといちいち怒ったりしてはいけない。
世の中だけではない。
何事にも怒らないようにするのが、これからの余生で一番大事なことのように思える。

世の中には年をとるほどに怒らなくなる人もいるだろう。
そういう人は死ぬまで楽しく酒が飲める。
年をとればとるほど何もかも気に入らなくなるひとは、酒を飲むのが危険で仕方ない。

とりあえず会議で反対意見を言うのはやめよう。
言おうが言うまいが何も変わらないのだから、言うだけ無駄だ。

京極黄門

[宝暦5年8月16日(『鈴屋百首歌』第1冊奥書)](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0181.html)に「京極黄門」と見える。
藤原定家のことだが、どちらかといえば、漢学的、儒学的な呼び名のように思われる。
この頃はまだ漢学と国学のどちらという立場でもなかったか。

つまり26才の宣長はただひたすらに歌が好きな人ではなく、漢詩も作れば、和歌も詠む。
そういう人だったとすれば、
芦分け小舟を書いたのは、これよりあとだったことになる。

> 宝暦6年(1756)1月5日以降『在京日記』が和文体に変わった

これも傍証になろうか。

契沖に出会ったタイミングはいつだろうか。

黄門は中納言の唐名。
水戸光圀の号ではない。

宣長は契沖のように僧侶になりたかったのかもしれんね。
もし宣長が貧乏だったら迷わずそうしたのだろうが、
実家が金持ちだったから、当時としては比較的自由業に近い医者の道を選んだ。