くんなまし

花魁が「くんなまし」というのは「くれ」「なまし」で「なまし」は万葉時代から使われた連語で「まし」は推量で、もとはと言えば反実仮想。
「くれないかなあ」とか「くれたらいいのに」という意味だと思うが、
なぜ花魁がこんな言葉を使うようになったのか。
「わちき」は下町言葉由来だが、
「くんなまし」はたぶんなんかの雅語に由来するんだと思うが。
「くんな」だとぞんざいだから「まし」をつけろと言われたか。

> にいさん、またきてくんなまし(きっとまた来てくださいますよね)

という定型のフレーズで使われたわけだが(元ネタは落語)、
どこから出てきたものか。
案外上方由来かもしれんね。
なんか有名な花魁がいてその言葉遣いをみんなまねるようになったとか。

かなりどうでもいいことだが
「間違える」と「間違う」はどう違うんだろう。
うーん。
さらに、
「間違え」と「間違い」は使い分けるべきなのか。
ほんとは使い分けるべきなんだろうなあ。

甲州街道と青梅街道の間あたり。

歩かないと死んじゃう星人なので、せっせと毎日散歩する。裏道のほうが歩きやすいから、
できるだけ路地を歩くんだが、
口笛吹きながら自転車に乗ってるおやじが異様にうるさいので、
ジモティーかと思って見るとどうも景品みたいのをかごに乗せているので新聞の勧誘らしい。
○○町かあー、とか独り言言いながら通り過ぎた。
おやじの独り言うざい。

ときどき変なところに変な具合に商店街が残っているがたぶんなんかの脇街道の名残だろう。
電車や地下鉄が通る前にあった商店街だから
(駅が移動して商店街だけ残される場合もあるが)大正とか戦前とかからあるに違いない。
つないでみると面白いかもしれん。
寿司屋とか茶屋とか寺とか庚申塚とか、あと道の通り抜け具合や幅なんかからだいたいわかる。
再開発されちゃうとまったくわからなくなる。
古地図みれば一発なんだろうけど、あるかな。

甲州街道はまったく歩行者にとってはどうしようもないバリアであり、
かつ排気ガス臭い。
首都高とかも、通ってるしね。

『フローニ』は一種の論文なんでできるだけ早めに出す必要があったが、
『エウメネス』は旧作の一部だし新規性はあんま関係ないからしばらく放置すると思う。
次の新作を出したときにプロモーション代わりに無料キャンペーンするかもしれん。
それまで小説書くことに興味が持続していればだが。
なんでもそうなんだが、飽きっぽくて、結果が見えてしまうことには興味を失ってしまう。
小説は、自分としては、あたるかはずれるかわからん(はずれるだろうけど)ところが面白いだけかもしれない。
今はもう金をもうけるというよりは死んだ後も自分が書いたものが遺ることを目的に書いているようなもんだから、
DRMは外しておこうと思う。
それから、
このブログなんだが、私が死ぬと銀行口座が凍結されて、
サーバーの会社が金を引き落とせなくなるから1年以内にとまって消滅する。
もちろんどっかのだれかがアーカイブしてるのは残るだろうけど。
いろいろ思うに、身近な知合いで自分より長く生きそうなやつに託すというのが従来一般的だと思うが、
それでもいいんだけど、
身近な知合いだから自分のことをよく理解できるわけではないということはだいたいわかっている。
まったく見ず知らずの人がずっとあとになって発見してくれるような残し方をしないといけないと思う。

へレースポントス

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。
修正せねばならない。
へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。
意味はずばり「ギリシャの海」。
ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。
つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。
ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、
これはポントスの手前の海と解釈できる。
へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。

もっと細かく言えば、
ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。
プロポンティス海は海である。
そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、
古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。
ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、
もとは両方とも固有名詞であったか。
あるいはポントスだけが固有名詞だったか。
どういう使い分けか、よく分からない。
ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。
その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。

黒海

黒海に流れ込む河川には、ドナウ、ドン、ドニエプル川などがあるが、
それらのすべての河川の流域面積の総計は[1,874,904 km2](http://www.grid.unep.ch/bsein/publish/water1.htm)
ということらしい。
これに黒海とアゾフ海の面積は含まれていないとすれば、
ボスポラス海峡を通る水系全体の面積は約235万km2となり、
ナイル川や、シベリアの大河などよりも少し小さいくらい、ということになる。

世界最大のアマゾン川で700万km2 なので全然及ばない。
しかしガンジス川やインダス川、長江、メコン川なんかよりはずっと広いので、
巨大な大河に相当するのには違いない。

いずれにしても記述に誤りがあったので直した。
ああいつまでも収束しない。
だがもうこれ以上いじるといじりすぎな気がするからこの辺でやめるべきな気がする。
いじりすぎると嫌味なにおいが出てくると思う。
そのちょっと手前でやめとかないと。

2014年センター漢文をやってみた。

なんか今更ながらやってみた。
問5だけ間違ったが、なんで間違いなのかよくわからん。
「世莫不貴取賤棄也」
(1)「世に取るを貴び棄つるを賤しまざることなきなり」ではなぜいけないのか。
(2)「世に貴は取られ賤しきは棄てられざるはなし」と訓むのは苦しくないか。
たぶん「莫不」は二重否定の連語であろう。調べてみると、やはり「せざるはなし」。
ふつうは「貴取」は「取るを貴ぶ」であろう。「貴は取られ」となぜ訓むのか。わからん。
(2)の方が意味は通りやすいかもしれんが、(1)ではダメな理由がわからん。
いずれにしても、取られる方は貴くて、棄てられる方は賤しい、世の中ではふつうそう考えるものだ。という意味だろう。

はあ。
[歯がゆいながらも、誤答と切り捨てられない。](http://sakon-efu.at.webry.info/201401/article_2.html)
またそれか。

> 無理はないどころかむしろ漢文法に忠実で、よく学習しているとすら言える。

ワロス。
なるほど、続く文章にヒントが隠されている。
「取ラルル」「棄テラルル」と受け身に読んでくださいね、とそう言っているのだが、
ではここの訓読が「取ル」「棄ツル」ではなぜいけないのか。
というより、もとの文がそういうふうに訓読しているから、それに合わせて訓読してね、
ということだろうか。
なんとも腹立たしい。
逃げ道だけは用意してあるが、そもそもこんな限りなく紛らわしい設問出すのがおかしいんじゃないのか。
そこを気づくのが「国語」だとでも言いたいのか。
そもそも日本語でどんな風に訓読するかなんて中国人にはどうでも良いところだ。
そんなところを出題するなと言いたい。
素読で意味が通ればそれでいいじゃないか。

> センター漢文問5は書き下しの適否をたずねる設問だったが、書き下しの文法的検討とは関係なく文脈で正解が決まるものだった。しかも正答とされる訓読は、その文法的解釈にはなはだ疑問が残るものだった。
出題者は漢文の文法構造を軽視し、受験生もまた文法的に検討することなく文脈のみを追う。
なんとなく書き下し文があって、なんとなく文脈が把握できたら、それでよしと思っている――そういうスタンスが透けて見えるようだ。
そういう安易な漢文読解を廃し、しっかりした漢文力を高校生・大学生に身につけさせることが、あるべき漢文施策であり、そのためのセンター試験でもあるはずだ。
にもかかわらず、肝心のセンター試験がこのありさまでは、やはり遠からず漢文は滅びてしまうに違いない。
これが私の感じた「後味の悪さ」なのである。

おっしゃる通り。

問1は、まあ簡単。

問2は、5以外まともな訓読になってない。まあ、簡単。

問3、簡単。

問4は、猶の訳としては5しかあり得ない。

問6は、「夫」で切れるからエは確実で、するとイでは切れないからアとなる。

問7は、「豈」が反語ではないというのが非常にトリッキーだが、意味的に5しかあり得ない、ということになる。

問5と問7はすらっと解けないようにできている。他のも全体にいやらしいか簡単すぎるかのどちらか。
また一ついやな過去問ができた。
なぜみんなもっと批判しないのだろう。
良い大人がちゃんと問題解いて、わーっと騒いでたらセンター試験なんてこんなめんどくさいもんやっとられんとなって、もっとはやくつぶれたのに。
各大学が勝手にやる入試なんてしらんし。

陸樹声?
だれだよこんな訓読したやつ。