とりよろふ

「とりよろふ」は万葉集に「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」という形でしかでてこない。
岩波古語辞典はあっさり「不詳。気持ちや生活のよりどころとする意か」とある。
「とりより」から派生したのは明らかであり、こちらは用例が多い。
原義は「手づるをつかんで近くに添うこと」、らしい。
「うつり」に反復・継続の接尾語「ひ」がついて「うつろひ」となるように、
「とりより」に「ひ」がついて「とりよろひ」。

そうしてみると、大和にはいろんな山があるが、
それらの山々がとりよろふ天の香具山、
つまり、大和の山々の中でも、中心的な位置、存在、代表であるところの天の香具山、
となるだろうか。天の香具山自体は、高くもなく、平凡な山であるが、その名の通りに何か特別な意味を持つ山である、
ということだろう。

> 忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

はて、これは誰の歌であったか。
あれ?
わからんぞ。
あ、わかった。やはり自分で詠んだのだ。

> とりよろふ 天の香具山 よろづよに 見るとも飽かめや 天の香具山

宣長の歌だが、単なる枕詞のように使ってあるな。

> 日の本や こまもろこしと とりよろふ よろづの酒を 飲みてしやまむ

これは私の歌なのだが。
こんな使い方していいのだろうか。

うーん。不適切な気がしてきた。

秋成

秋成の擬古文は、宣長のような堅苦しさもなく、なめらかですばらしい。

> みかどに立てば、世をまつりごち、庵のどかに住みなしては、あまねく病に験ある薬を舐めわきて、
惻隠とかの心をいたせしとや。

「まつりごち」は「まつりごと」を活用させた語だが、源氏物語に出る。
「あまねく病にしるしある薬」とは酒のことであるらしい。
なんかしびれるな、こういうのを美文というのだろう。
やはり秋成はちゃんと読まねばならぬ。
馬琴とか春水とか京伝とかは差し置いてまず読まねばならぬ。
秋成は文法とか仮名遣いなどがやや乱調なのだが、そこもまた彼の味か。
秋成と宣長の長所を合わせれば完璧な擬古文ができあがるだろう。
源氏物語の文体を現代にそのまま復活させることはできない。
秋成や宣長の文体は近世なので、なんとか現代風にアレンジすれば、今でも使い物になるんじゃないか。
そのうちこのブログでも実践してみるか(笑)

それはそうと、
しばらく酒を飲まずにいると低血圧になるようだ。
血圧計で測ってみてもそうだし、
朝寝起きが悪くなるし、
立ちくらみもする。
おそらくついでにコレステロール値も下がるのではないか。
毎日何キロも歩いてみたり、断食まがいのことをしてみても、あまり効果がなく、
結局酒をやめれば体調が良くなるということか。

血圧高い方が寝覚めも良いし活発に動けるが早死にする。
低血圧なくらいな方が長生きする。

まあこれまで人の何倍も酒を飲んできたから、
そろそろ週に一度たしなむ程度にするのもよかろうか。
このへんで[酒池肉林](http://blog.excite.co.jp/meshi-quest/21606309/)
とか言ってるのを見るとうらやましくもあるが。

連歌はつまらない、連歌が和歌をつまらなくした元凶ではないか。

知らぬことにわざわざ首を突っ込むのは危険なのだが、
なんとなく、
和歌をつまらなくしたのは連歌ではないか、と思い始めた。

秋成とか宣長とか真淵とか景樹とか蘆庵というのは、
やはり他の歌人たちとは何かが違う。
特に誰か一人と言えば秋成が良い。次に景樹か蘆庵だが、宣長の歌が私は好きだ。
契沖もやや面白い。
宣長と契沖は二人ともつまらぬ歌を大量に詠んだ人ということになっているが、
彼らよりつまらぬ歌人ならいくらでもいる。
秋成らは、自分も一生懸命良い歌を詠めば必然的に後世評価してもらえるのではないか、
名が残るのではないかと思えるくらい、
同時代の他の歌人と比べると、歴然と違う。

吉田兼好はかなりつまらない。
面白いエッセイを書くくせに見るべき歌はほとんどない。
ま、ある意味清少納言や紫式部もそうだが。
頓阿がまたつまらない。
一生懸命に彼の良い歌を探しているつもりがいっこう見つからない。
正徹と肖柏はわりと面白いが、
宗祇はかなり面白くなく、
藤原惺窩もつまらない。なんだこの人とか思う。

だが、細川幽斎や木下長嘯子や松永貞徳は割と面白い。
後水尾天皇は面白いが霊元天皇はつまらない。
霊元院は小説に書いたからなんか良い歌はなかろうかと探してみたがいっこうに見つからない。

田安宗武は良いのもあるが悪いやつの方が多い。こういう人は一番信用できない。
つまり、吉宗の息子だからというのもあるが、代詠が疑われる。

正岡子規が実朝(が詠んだとされる)歌

> もののふの やなみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

を誉めているのだが、
確かにこの歌はよい。
最初から最後までイメージがびしっと決まっている。起承転結がある。
或いは枠構造がある。
初句から始まり、結句まで気が抜けず、うまくひねって落としてあるのが良い歌。
そして再び口ずさんでみて、イメージがますます膨らんでいくのが良い歌。
良い歌はただの言葉ではない。映像であり音楽でもある。
一瞬、ただの31音の言葉に過ぎないことを忘れさせてくれる。

連歌にはおそらくそれがない。
なんとなく雰囲気がそれっぽければ良く、イメージが濁っている。
雰囲気だけで中身がないのだ。
連歌はたぶん誰にでも詠める。
そうとう下手に詠んでも、続ける人がリカバーしてくれるのかもしれない。
ただリカバーしたとしてももともと一本筋が通ってないからよほどのことが無い限り面白くはならない。
水増しして大量生産した感じ。

和歌も連歌みたいで良いじゃんということになると、
和歌までもつまらなくなってしまう。
一般人は違いがわからないから余計にそれで良いんだと思ってしまう。

現代人もそうだと思う。
なんとなく百人一首ぽければいい、なんとなく俵万智みたいならいい、
そこに際限なく演歌やJPOPのフレーズが混ざってきても気にならない。
だからまともな和歌が詠めないのだ。

連歌から発句が生まれ俳句になった。
俳句のひどいのも多い。
俳句のつもりで和歌を詠むとなおひどい。
俳句は、以前にも書いたかも知れないが、あれは造園や生け花と同じで、
言葉を三つ配置しただけのものだ。
「天地人」とか「主副客」というアレである。
和歌はもっと複雑なことが表現できる。

真白嶺と芝山

最近また和歌を詠もうと思いリハビリしてる。

> しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の真しらね

> しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の芝山

のどちらがよいか悩んでいる。
「真しらね」は「真白嶺」だが、どうも不思議と用例が少ない。
秋成の歌に

> 箱根路の 雪踏み分けて 真しらねの ふじの高嶺を 空にみるかな

というのがあるが「富士の真白嶺」とやった人はまだいないらしい。
かたや、「富士の芝山」というのは万葉集に出て、便利とみえて、その後もいろんな人が使っている。
加藤千蔭

> あづま路に まづくる春の 日の影を 雪に待ちとる 富士の芝山

> うらうらと 富士の芝山 霞む日に 田子の浦舟 ゆたに漕ぐみゆ

明治天皇の歌にも

> あづまにと いそぐ船路の 波の上に うれしく見ゆる ふじの芝山

とあり、昭憲皇太后の歌にもあったはず。
どっちがいいかね。

新撰萬葉集

最近書かれた記事らしい。これはすごい。
[新撰萬葉集](http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/4b3885fc912985be2e9f75b453195335)、
[新撰萬葉集 下](http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/a90bbc2df67dcfad96ffe3b271dc51c3)。

歌は、是貞親王家歌合と寛平御時后宮歌合を合わせたようなもので、
それに、大して良いできとは思えない七言絶句がついている。

そりゃそうと
[和歌データベース](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)
が落ちてるっぽいんだが、
なんとかしてくれ。

なんだ、
[メンテナンス中](http://www.nichibun.ac.jp/ja/announce/side/2014/03/22/s001/index.html)
なのか。
びびったわ。
違う、こっちだ。
[2014年3月19日 保守作業に伴うDB停止のお知らせ](http://www.nichibun.ac.jp/ja/announce/side/2014/03/19/s001/index.html)

[寛平御時后宮歌合](http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/55e9b99d75b0c1c00eed5f9110b2af64)

> 秋風は たが手向けとか もみぢ葉を 幣に切りつつ 吹き散らすらむ

道真の歌に似てるな。
というか明らかに道真はこの歌を参考にしているわな。

> このたびは 幣も取りあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに