中島敦の日記と書簡

中島敦の旧宅は今の世田谷区世田谷の世田谷中央病院の辺りだが、
私はこの界隈に二度ほど住んだことがある。
最寄り駅は世田谷線世田谷駅。
松陰神社や代官屋敷も近い。
ボロ市も何度も見たし、豪徳寺を散歩したりもした。
彼の昭和十七年七月十三日の書簡に

> これからは役人をやめて、原稿を書いて生活していくことになるでしょう。今も盛んに書いています。
但し、僕の書く物は、女の子の雑誌には向かないから、君たちの目にはなかなか触れないでしょう。
時々清書してくれる人が欲しくなりますよ。

八月六日には

> 南洋庁へは辞表を出しました。作品を書きたいからではなく、身体が(また南洋へ行くのでは)もたないからです。、

十月二十八日には

> 小生、まだ南洋庁からお暇が出ません。
今度またあちらへやらせられれば身体のもたないことは判りきっていますので、これだけはどうあっても頑張ってやめさせて貰おうと思っております。

などとも書いている。
ざっと読んだだけだが、小説を書こうなどと言い出したのは、南洋から帰ったあとであり、
南洋から帰るということは役人を辞めて小説を書こうと考えたからだろうと思われる。
彼は役人という仕事が嫌いだった。
病気のためもあるかもしれないが、中島敦は役人を辞めて物書きになろうとしているのであり、
「山月記」の李徴の境遇に近いのではないか。

「山月記」の主題とは何かということを改めて考えさせられたのだが
([「山月記」はなぜ国民教材となったのか](/?p=14007)、および[人虎伝](/?p=14480))、
「大して裕福でもなく、病気で死にかけているのに、役人を辞めて物書きになろうとしている、妻子持ちの自分」というものをどうしても書きたかった、
というより、
どうしてもそちらのほうへ話が引きずられてしまった、というあたりが真実ではなかろうか。
彼はおそらくパラオで役人をやっていたら世田谷で死なずに済んだはずだ。
パラオから帰ろうと思ったのは著作活動には東京の方が何かと便利だと思ったからだろう。
しかし、病状が進んで南洋に帰ることもできず、東京では養生もできずに死んでしまった。
「山月記」に主題があるかどうか知らんが、もし主題というのならそのあたりではなかろうか。

人生の無常とか世の中の不条理とかが現代小説の主題ですとか言う必要はないと思うんだ。
いやていうかね。
高校国語で「現代小説の特徴」とかいう雑駁なことを教えようとするからいけないと思うんだ。
(コモンセンスとしての)「現代小説の特徴」などというものは存在しないのだから。

ちなみに私も昔役人だったが辞めた。
辞めた年齢も、ちょうど中島敦と同じくらいだった。
独身だから気楽に辞められたが、妻子がいたら思いとどまったかもしれない。
中島敦は役人(仕事)が嫌いだった。
私と同じ理由かどうかはわからんが、
辞めたときの私の気分は「巨鐘を撞く者」の中で大塩平八郎に代弁させてある。
今度当該箇所を読んだらにやりとしてほしい。

[世田谷にいた頃に書いた日記](/?p=14725)を探してみたがろくなのがない。

河原院

源融は嵯峨天皇の皇子だが、兄にあたる仁明天皇の養子になっている。
仁明天皇が皇后の子で、源融は庶出大原氏の子だから、この養子縁組は扶養の意味だろう。
河原左大臣こと源融が住んだ河原院はわりと豪勢な邸だったようだ。
源融の男子には源湛、源昇らがあったが、
昇が河原の院を相続し、河原大納言などと呼ばれている。
昇は生まれてすぐに光孝天皇の養子になっている。
昇の母は不詳とあるから、これもまた扶養目的だったように思う。
昇は宇多上皇の吉野御幸にも随伴している。
近しい側近という感じである。

河原院は昇が死ぬと宇多上皇に献上されたという。
理由は不明だが、おそらく、
河原院は融が仁明天皇の養子になったときに下賜されたものなのだろう。
河原院を昇が相続するにあたって改めて光孝天皇の養子となった。
昇の子は誰も天皇の養子にならなかったので、皇室に河原院を返上したのではないか。

歴史と文学

小林秀雄の「歴史と文学」というエッセイ読んでる。少し面白い。

> 例えば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読むことは決して出来ないていのものだ。
これを無味乾燥なものと教えて来たからには、そこによっぽどの余計な工夫が凝らされて来たと見る可きではないか。

こんなことを、すでに昭和十六年に言っている。
戦前、というか戦中ですらそうなんだから、
戦後の日本の歴史教育なんてものは、どうなっちゃうのか。

> 僕等がこちらから出向いて登らねばならぬ道もない山であります。
手前の低い山にさえ登れない人には、向こうにある雪を冠った山の姿は見えて来ない、そういうものである。

ですます調とである調をわざと混ぜて書いている。
あの、小林秀雄が!
なんだろう、元は口述筆記かな。

> 僕は、日本人の書いた歴史のうちで、「神皇正統記」が一番立派な歴史だと思っています。

ええー(笑)。
ショック。

乱れそめにし

伊勢物語第1段

むかし、をとこ、うひかぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に住にけり。
その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このをとこ、かいまみてけり。
おもほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
をとこの着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。
そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。

> かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず

となむおひつきていひやりける。
ついでおもしろきことともや思ひけむ。

> みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに

といふ歌の心ばへなり。
昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。

このように伊勢物語には「乱れそめにし」と出てくる。
古今和歌集には源融の歌として、「乱れんと思ふ」と出る。
百人一首は古今集に載る歌をわざと改変したのではなく、伊勢物語の方を採った、ということになる。

そんでまあ、通常この話は、
在原業平が源融の歌を本歌取りして詠んだのだと解釈されるのだが、ほんとだろうか。
素直に女の返歌として解釈してもいいんじゃないのか。
伊勢物語と古今集と業平集にはかなり重複があるが、必ずしも同じではない。
古今集と伊勢物語の話を、無理につじつま合わせする必要はない。

男が「あなたの姿をみて思い乱れてしまいました」と詠んで女が
「ほんとに私のせいで思い乱れたのでしょうか」ととぼけた調子で返す、
と解釈するのが一番素直な感じがするのだが。

百人一首への招待2

「百人一首への招待」の後の方を読んでいると、
定家と為家の合作説というものも提示されていて、
まあそうかもしれんしそうでないかもしれん。

定家が天智天皇の凡庸な歌を好きなのは、確かに、
天智天皇が藤原氏に非常に関係が深いからかもしれないし、
その歌が、ある意味不自然なまでに牧歌的で、おおらかなのも、
政治的意図(理想の君主像とか)がそこにあるのかもしれない。
いずれにせよ、定家が藤原氏でなければ天智天皇を最初にもってくることはなかった。
「秋の田の」が天智天皇自身が詠んだ歌でないことは明白であって、
従って聖武天皇とか文武天皇とか桓武天皇が詠んだことにしたってよかったわけである。
定家は「秋の田の」が天智天皇の真作だということにしたかった。
そう信じ込みたかった。

陽成院が定家に評価されてないってことも指摘してある。