足利将軍家

ashikaga

こうして系図にしてみると、
足利将軍家というのは兄弟で横にどんどん分岐していて、
しかも徳川氏のように御三家とか御三卿などの区別もなく、
尊氏の子孫のだれが偉いのかという序列もないように見える。
これではお家騒動が頻発してもおかしくない。
そのお家騒動に乗じて守護らが力をつけていき、足利氏はさらに弱体化していったはずだ。

逆の言い方をすれば徳川氏は足利氏のありさまを見て、
争い事が起きないような相続の規則を定めたのだろう。
徳川氏ではめったに起きてない、同族間の抗争が、足利氏では頻発しているのがわかるのである。

しかしまあ、知れば知るほど室町時代は奥が深いな。
そのうえほとんど世間には知られていない。

ゴッドファーザー追記

今では映画が一つあたるとシリーズ化するのが当たり前のようになっているが、
ゴッドファーザーの頃はそうでもなかったらしく、
続編を作ることにいろんな抵抗があったようだ。
二作目は一作目の前の話と後の話でサンドイッチする形で作られており、
一作目に相当する時期のちょっとした逸話も挿入されている。
もしマーロン・ブランドがヴィト役を引き受けていたらもっとその部分を膨らましただろう。

興行的にはともかくとして、またこの作品が結果として非常に優れているということもおいておいて、
この二作目はおそらく作る必要のないものだった。
少なくとも一作目から必然的連続的に出てくる話ではない。

コッポラはのちに地獄の黙示録を作ったように、
キューバ革命を描きたかったのだろう。
いや話はほんとは逆で、当時同時進行していたベトナム戦争が、
かつてのキューバ革命をコッポラに思い出させたのだろう。
彼の関心はアメリカという国の大義名分というものではなかったか。
あるいはアメリカ人を負かしたベトナム人やキューバ人に興味があったのかもしれない。
マフィアの話を書きたいのでもなかったかもしれない。
コッポラはヴィトやマイケルになんとかして表の世界、
つまり知事や上院議員などの仕事に就かせようとする。
裏社会の話は彼にはどうでも良い気がしていたのではないか。

コッポラにはゴッドファーザーという持ちネタがあったから、
ある意味それに引きずられて、
続編という形で作ることになる。
キューバのバチスタ政権と結んで、
フロリダ州マイアミを拠点して大儲けしていたユダヤ系のマフィアが[マイヤー・ランスキー](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)、彼は[Hyman Roth](http://en.wikipedia.org/wiki/Hyman_Roth)のモデルである。
友人のベンジャミン・シーゲルは同じユダヤ系で[Moe Greene](http://en.wikipedia.org/wiki/Moe_Greene)のモデルである。

コッポラは一作目から二作目へ話を橋渡しするためにモー・グリーンを使った。
一作目でモー・グリーンとロスはヴィトの商売仲間であり、
ヴィトはモーがラスヴェガスでホテルやカジノを経営するための資金を提供し、
その代りできの悪い息子のフレドをモーに預けている。
モーは一作目で死に、ロスは二作目から出てくる。
モーはイタリア系マフィアのナンバーツーでコルレオーネ家に敵対する黒幕の[Emilio Barzini](http://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Barzini)と親しかった。
バルジーニは麻薬に手を出さず、政治家を独占しているヴィトの勢力を切り崩そうとしていた。
それは割と映画の中で丁寧に説明されている。
マイケルは父ヴィトと相談の上でラスヴェガスのモーを圧迫し、ヴィトの死後モーやバルジーニを殺害する。
ロスはハバナでヴィトと商売をした仲であったが、
やはりヴィトの死後、友人モーの件を遺恨に持って、マイケルを殺そうとする。
だがそのモーとロスの関係がいまいち弱い気がするんだよなあ。

上院議員の[Pat Geary](http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Geary)はものすごく緻密に描かれているのに対して、ロスはいまいちとってつけたようだ。
コッポラという人はよほど政治家(政治、戦争、革命etc)に興味があるように思える。

映画と原作

もともとの出典はわからぬが、ウィキペディア「宮崎駿」には、

> この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。が、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。

と書かれている。
原作がなければ映画は作れない、という通念が存在しているのかどうか、ということが長いこと気にかかっていた。
だもんだから、「川越素描」の中では、

> 私ね、以前に、加奈子にノベルゲーの台本を書いてみてはどうかって、アドバイスされたことがあったのだけど、そのとき気づいたの。私が書きたいのは台本ではなくて、小説なんだってことが。それもラノベとかじゃあなくて、ばりばりの長編小説で、登場人物が百人くらい出てきて、主人公もどんどん代わっていくようなもの。それで、まず私は原作を小説で書くわ。それを台本に落としていくの。たとえば、黒澤明監督の映画にも、山本周五郎の原作があるようなものよ。私は手加減なしに小説を書くから、それを加奈子か一成に、台本に翻案するのを手伝ってもらいたいのよ。そういう条件で良ければ、引き受けるわ。

> 俺はそれで、全然かまわんよ。オペラの脚色ってのは、つまり、原作をばっさばっさと切り取って、歌劇にできる部分だけを残す作業さ。難しく考えることはない。大丈夫、俺が手伝う。なんとかなるよ。それでいいかい。

などと登場人物に語らせている。
「ナウシカ」は明らかに、原作などなくてもアニメは作れるという反例である(むしろマンガの後半はアニメから派生した外伝のようにも見える)。
宮崎駿はどちらかと言えば原作を無視して勝手に話を作ってしまう人である。
ルパンの仕事をたのまれたからカリオストロを作ったのに過ぎない。
「風たちぬ」なんかもかなりひどい。
宮崎駿は原作不要論者にとっての良い見本だ。

プロデューサーという人は人とコストの計算をする人だから、
アニメーターの宮崎駿という人が、
自分の才能だけを頼りとして、損得も役割分担も考えずに作品を作られては迷惑なのだろう。
たとえて言えばチャイコフスキーのピアノコンチェルト第一番を、
楽団も指揮者も無視して、作曲家の意図も無視して、
ピアニストの独断で即興演奏するみたいなものだわな、宮崎駿の場合。
プロデューサーはモノづくりよりは金儲けを本業とする。
その一線はどうしてもある。そこがクリエイターやディレクターとは違う。

プロデューサーとかディレクターとかクリエイターとかをみんな一人の万能の人間がやったほうが良い作品ができるかといわれれば理想的にはそうだろう。
少なくとも普通のコスト管理された量産型の作品ではなく、
稀に見る天才的な作品の場合には。

ただまあ私は原作はあったほうがよいと思う。
きちんとした原作を書くこと自体そんなに簡単なことはではないし、
書いていて面白いことだ。
ゴッドファーザーを見ていても二時間か三時間の映像作品ですべてを描き切ることは不可能だ、
コッポラという天才をもってしても不可能なのだから。
コッポラは明らかにすべてを映像という媒体で説明することをあきらめている。
ストーリーや人間関係を映像で説明しながら、見ているものにだれが黒幕かを推理させようとした形跡はある。
だが1作目ではヴィトに黒幕はバルジーニであるとネタばらしさせているし、
2作目でもやはりあまり説明もなしにマイケルに黒幕はロスであると語らせている。
ミステリー作品ならこんなふうにあっさりネタばらしはしない。
作品の途中でネタばらしするとしたらそれは普通はひっかけであって本当のオチは作品の最後までひっぱるものだ(ただし、見ている者は、マイケルのその判断が正しいのかどうか、あるいは策略としてそう言っているだけなのか、半信半疑のまましばらくは見させられる)。
1作目はまだ丁寧に映像で話を説明しようとしているのだが、
2作目だと、そうできなくはなかったに違いないのにやってない。
プロットだけはあって映像化されなかった部分がある。
さらに明らかに二つの作品に分けたほうがわかりやすいのに、
二つのストーリーを交錯させてわけをわかりにくくしている。
それがコッポラ独特の演出だというが、それはかいかぶりではないか。
たぶんあまりにもわかりにくい話なのでよけいにわかりにくくしてごまかしたのだろうと思う。

で、普通の人は映画なんてのは映画館で一度しか見ないのであり、
映画を小説のように何度も何度も繰り返して見てストーリーやら演出の意図やらを理解しようとする人はいない。
今ならいても昔はそんな鑑賞の仕方ができなかった。
アカデミー賞に選ばれたのもストーリーが面白いというよりはやはり映像や演出の面白さだろう。
そういう意味では映画は明らかに「総合芸術」ではない。
単なる「映像芸術」だ。
理屈抜きに面白いのが映画ということだが、
映像で語りきれなかった部分はやはり原作が担保しなくてはならない。
そのための原作なのではなかろうか。

思えば和歌も似たようなものかもしれない。
言いたいことはあるが、それを短い定型詩であらわさねばならない。
長い詞書をつけたり定型を外れたり、言わんとすることは言わずただ口調だけ整えたりそれらしい言葉だけ並べたり。
だが良い歌はそういう窮屈な制約の中で言いたいことを言い尽くせているものなのだ。
そこをすっ飛ばしていては意味がないと思う。

> 菜摘としても、原作者の誇りがある。原作や台本をどうアレンジされようが、自分とは関係ない。というより、台本や原作に忠実に脚色・演出することなど不可能だ。それはそれで、勝手にすればよい。原作者が口出しすべきことでもない。原作に対して複数のさまざまな解釈があってよい。

同じ「川越素描」では主人公の菜摘にこんなことも言わせているのだが、
ま、これは一種のあきらめでもある。
原作者はどうせ原作でしか自分のアイデンティティを保てないのだから。
というか作品のつまらなさを原作のせいにされてもこまる。
原作として選ばれるのは名誉ではあるが、
原作は無視してもらってもかまわないからちゃんと面白いもの作れよくらいしか、
期待するところはない。

そういえば、
ゲームやアニメから派生したノベライズという小説もあるわな。
ノベライズはキャラクターグッズみたいなものだからな。
ノベライズは最悪。
売れないライターにはそんな仕事が回ってくるのだろうか。
あるいはクリエイターが箔付けするために小説もどきをゴーストライターに頼んで出すのだろうか。
気持ち悪い。

Frank Pentangeli

[Frank Pentangeli](http://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Pentangeli)。
映画の中では明示されていないプロットが明かされている。

フランクの兄ヴィンチェンツォはシチリアから来た。
ヴィンチェンツォもまたシチリアのマフィアである。
ヴィンチェンツォはフランクに、
ファミリーに不利益な証言をすることでペンタンジェリ家の名誉を汚すなと目で訴えた。
マイケルはこうしてヴィンチェンツォを連れてくることによってフランクの考えを変えさせることに成功した。
またフランクがシチリアに残してきた一族はヴィンチェンツォによって守られているが、
もしフランクが一族の名誉を汚したらその庇護もなくなるということを意味したかもしれない。

フランクはもともと公聴会の証人としてFBIに保護されていた(Protective custody)のであるが、
今度は偽証罪のために400年間、つまり死ぬまで刑務所に入ることになった。
トムはフランクに面会して、
コルレオーネ一家がフランクの家族の生活を保障する代わりに自殺してもらいたいということをほのめかす。
つまりはマイケルによって口封じされたことになる。

てことを映画を見ただけでわかるはずがない。

ゴッドファーザー2

面白いんだが、よくまあこんな複雑な話を作ったものだと思う。しかも長い。

少し無理があるなと思うのは、マイケルがネヴァダからマイアミへロスに会いに行き、
その後ニューヨークでフランクに面会したときに、
マイケルを襲撃した黒幕がロスであることに気づいてたということだ。
ネヴァダにいた頃から気づいていたのか。
マイアミで直接ロスにあって直感したのか。
それともフランクの反応を見て最終的に確信にいたったのか。
語られていないことが多いのだが、
いずれにせよ、
あれだけのヒントでどうしてロスが黒幕と断定できるのか。
そこにかなり無理を感じる。

ロスのモデルは[マイヤー・ランスキー](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)というユダヤ系ロシア人であろう。
革命前のキューバでのしあがったマフィア。
カストロが親米政権を倒すとラスヴェガスの賭博に目をつける。
晩年イスラエル国籍を得ようとするが拒否される。
映画の中の設定と同じだ。

ラスヴェガスのカジノ産業を創始したモー・グリーンというマフィアのモデルは
[ベンジャミン・シーゲル](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB)
という人らしい。
モー・グリーンは一作目のゴッドファーザーでコルレオーネ一家の敵役として登場しているのだが、
ロスはモー・グリーンと同じユダヤ系マフィアであって、
それゆえにラスヴェガスに進出してこようとしているマイケルを敵視しているらしいのだが、
これも本作だけを見ている限りではよくわからない。

でまあ、これらの実在したユダヤ系のマフィアと、イタリア系のマフィアが、
ラスヴェガスのカジノの利権を巡って対立したという抗争はあったのだろうし、
それがストーリーの下敷きになっているのだが、
それをあの映画を見ただけでわかれというのはちと難しい。

最初、マイケルの息子のアンソニーの初聖体式を祝うパーティーが開かれていて、
その場にネヴァダ州選出の上院議員パット・ギーリーという人が出てくる。
ギーリーはマイケルにカジノを認可する代わりに賄賂を要求するが、
マイケルは拒絶。
ギーリーはイタリア系移民を嫌う生粋のアメリカ人(アングロ・サクソン?)として描かれている。
次にロスの手下ジョニー・オラと会って、ロスの協力を得る。
次にフランクとあって、ニューヨークでロスの一派のロサト兄弟と和解するよう告げる。
その夜にマイケルはマシンガンで襲撃されるのだが、
この時点で黒幕は、ギーリーなのか、ロスなのか、フランクなのか、
それとも他に誰かいるのかわからない。

ギーリーは後にマイケルの兄フレドが経営する風俗店で女の死体と一緒に寝ていたところを発見されるのが、
理由は語られないが、おそらくコルレオーネ一家にはめられたということだろう。
以後弱みを握られたギーリーは公聴会に召喚されたマイケルを擁護する立場を演じる。

フランクは公聴会に証人で呼ばれるのだが、
彼はマイケルに殺されかけたと疑っており、
マフィアのボスとしてのマイケルの実像を公聴会で話すはずだったが、
フランクの兄が急遽イタリアからかけつけてきて、
それを見たフランクは一転してマイケルの容疑を否認する。
ここがまたよくわからない。
兄がマイケルと一緒にいたからマイケルを恐れたのか。
或いはマイケルに対する信用を回復したのか。
フランクはなぜFBIによってずっと拘留されているのか。
なぜフランクは、ロスが殺されると同時に自殺しなくてはならなかったのか。
ここらへんもきちんとは説明されていない。

その上、マイケルの父ヴィトーの前半生も同時に描かれているので、
ややこしいことこの上ない。