助動詞「り」の謎

助動詞「り」は「あり」と同根であって「てあり」「たり」ともほぼ同義。
四段・サ変・カ変・上一段にしか接続しない。
「給へり」「せり」「来れり」「なれり」「着れり」など。
下二段だと「たり」しかつかない。
「経たり」「得たり」など。
ラ変は同語反復になるからそもそも接続しない。
已然形接続だとか命令形接続だとかなんとかかんとかという議論があるが、
岩波古語辞典によれば奈良時代以前に、
連用形接続が音便したものだという。その説明が非常にくどくど書かれている。
確かに「り」は文法的には複雑すぎる。
従って次第に「たり」に統一される傾向にある。
「給ひたり」「したり」「来たり」「なりたり」「着たり」など。

継続の意味には「たり」を使えばよい。
断定には「なり」を使えば良い。
完了には「つ」か「ぬ」を使い分ければよい。
過去には「き」か「けり」を使えばよい。
「り」は面倒なので、いっそのこと使わないのがよい。
だが、便利なのでいまだによく使われる。
和歌の詞書だと「春立ちたる日よめる」などの定型でよく使われる。
「よみたる」でも意味は同じだが、普通使わない。
「春立つこころをよみける」「春立ちたる日よみはべりける」はたまに見る。
源氏物語にはあまり使われないが皆無ではない。
和泉式部日記にもあまり使われてない(「たまへり」「のたまへり」など定型でわずかにある)。
宣長もあまり使わないがやはり皆無ではない。
状況によっては便利だからだろう。

大正時代に成立した文語体の聖書には「癒やせり」「来ませり」「迷へる子羊」など、頻繁に使われる傾向がある。
「癒やしたり」「癒やしぬ」「おはしましぬ」とは普通言わない。

内村鑑三なども当時の聖書を引用して
「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待てり」
「其の名を信ぜし者には権を賜いて之を神の子と為せり」
「窮乏くして難苦めり」
などと言っている。
内村鑑三は、間違いなく、文語訳聖書の文体に最も大きな影響を与えた一人であろう。

気になって森鴎外を読んでみると、

即興詩人:
「此書は印するに四號活字を以てせり。」
「その高さ數尺に及べり。」
「これを寫す手段に苦しめり。」
「われ等は屋根裏やねうらの小部屋に住めり。」
「我初めて詩人といふことあきらかにさとれり。」
「この幻まぼろしの境を照せり。」

舞姫:
「そが傍に少女は羞を帶びて立てり。」
「いち早く登りて梯の上に立てり。」

森鴎外の文語文は、宣長や秋成の擬古文とは全然違う。
「たり」を良く使う人で、そのついでに「り」も使うのだろう。
なぜだろうか。
ともかく、明治時代に欧文翻訳用の文語文に「り」が多用される傾向があったのは間違いないと思う。
なぜかはよくわからない。
もしかすると漢文訓読体なのかもしれん。
森鴎外もずっと文語文を書いてたのではなく、次第に口語体になっていったようだ。
ごく初期の文章だけ文語文。
徳富蘇峰も「り」を良く使っていたような気がする(現在まだ青空文庫にない)。

となるとやはり明治前半の二葉亭四迷とか尾崎紅葉あたりの文体だろうかと、
金色夜叉を見てみるとやはり多い:
「揉みに揉んで独り散々に騒げり。」
「葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。」
「車は驀直に走れり、」
「辛くも一条の道を開けり。」
「人顔も眩きまでに耀き遍れり。」
「渦巻きつつ立迷へり。」

どういうことだろうか。
つまりは井原西鶴とか滝沢馬琴あたりまでさかのぼれるということだろうか。
そこらへんにルーツがあるというのはあり得なくもない。

付記:文語訳聖書は漢訳聖書の文語文への直訳であることが知られている。

椰子油

昔銀座明治屋のナイル・ギーという油をわざわざ買って食べていた。
丸元淑夫という人の著書に影響を受けたからだが。
今調べてみるとナイルというのは
[G. M. ナイル](http://ja.wikipedia.org/wiki/G._M._%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB)
という人の名にちなむらしいが、
銀座のインド料理屋[ナイルレストラン](http://www.ginza-nair.co.jp/)やら、
[ナイル商会](http://www.nair.co.jp)というのも系列であるらしい。
そこが作っているので
[ナイル・ギー](http://www.nair.co.jp/ghee.html)
というのであろう。

それで普通のギーは牛乳から作るらしい(チビクロさんぼで虎がバターになったというのがギー)のだが、
ナイル・ギーは純植物性と書いてあり、
植物というのがなんだかよくわからない。
いろいろ検索してみるとこの植物油というのは椰子油であるらしい。
椰子油で一番メジャーなのは[パーム油](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%B2%B9)で、
これは[アブラヤシ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%82%B7)という椰子から採れるらしいが、
ナイル・ギーもかなり高い確率でアブラヤシから採った油なのだろうと思うが、
確実かどうかはわからない。
アブラヤシはもともと南米とかアフリカ原産らしいが、
マレーシアにも大規模なプランテーションがあるらしく、
てことは東南アジアやインドの油もパーム油かもしれん。

で普通椰子油というのはココヤシから採れる[ココナツオイル](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B7%E6%B2%B9)。
こちらの方がパーム油よりやや高級らしい。

Vegetable Ghee は Vanaspati Ghee、或いは Dalda などとも言うらしいのだが、
[Wikipedia Ghee](http://en.wikipedia.org/wiki/Ghee)によれば、

> Indian restaurants and some households may use partially hydrogenated vegetable oil (also known as vanaspati, dalda, or “vegetable ghee”) in place of ghee because of its lower cost. This vegetable ghee may contain trans fat.

などと書いてあって恐ろしい。
つまりインド製の安物の植物ギーにはトランス脂肪酸が含まれている可能性があるというのである。

そんでまあ、成城石井とかカルディなどいろんなところを見て回ったのだが、
最近「ブラウンシュガーファースト 有機 ココナッツ オイル」てのが流行ってるらしくて、
比較的入手しやすくて、
ちと割高なんだが
「乾燥果肉不使用。搾りたてのココナッツミルクを遠心分離にかけて抽出する、新鮮な製法です。」
「有機JAS」
「トランス脂肪酸フリー」
「無漂白」
「無精製」
などを謳っていて、まあ、安心して食べられるかなと。

しかしギーで検索すると、ギーから石鹸を作るっていう話ばかり出てくる。
ココナツオイルから石鹸を作るのが流行っているらしい。

うーん。
こっちの方が高い。

家康転封2

日本外史によれば、
家康は秀吉によって関八州に封じられたが、
実質は六州(武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野)に過ぎず、
下野には宇都宮氏、安房には里見氏(八犬伝の)があった。
そのほか、結城・佐野・皆川、北条氏の残党などが関東を割拠していた。
元の三河・駿河・遠江・信濃・甲斐の五州から八州に加増させたとみせて、
家康を「拒塞」した、とある。

漫吟集

契沖の「漫吟集」なんだが、
これ読むのはかなり骨が折れる。
たまに秀歌が混じるが他は凡作としかいいようがない。
数が多くてきちんと分類されているから、読んでいるとだれる。
全体的に退屈と言われても仕方ないと思う。

> 菅の根に 雪は降りつつ 消ぬがうへに 冬をしのぎて 春は来にけり

悪くない。
「菅の根の」が「長き」にかかる枕詞だと知っていればすんなりわかる。
古今集の

> 奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 消ぬとかいはむ 恋の繁きに

の本歌取りだわな。

> うぐひすも 鳴かぬかぎりの 年のうちに たが許してか 春は来ぬらむ

これもまあ、悪くない。
「たが許してか」が珍しい。

> 宿ごとに いとなみたてし 門松の まつにかならず 春は来にけり

どうやらこれも本歌取りらしい。藤原顕季

> 門松を いとなみたてる そのほどに 春あけがたに 夜やなりぬらむ

ときどきすごく良いのがある。

> ねや近き 葉広がしはに 音立てて あられし降れば 夢ぞやぶるる

「夢ぞやぶるる」が良く効いている。

> 軒ばなる 蛛のいがきは 知らねども 山の嵐に 夢ぞやふるる

なんとこの正徹の歌の本歌取りらしい。

> 踏めば消え 消ゆれば摘みて 春の野の 雪も若菜も 残らざりけり

少し面白い。

> 立ち出でて 涼むそともの 木陰より かへりもあへぬ 夕立の空

木陰で涼んでいたら夕立がふりそのまま雨宿りした。
なかなか良い歌。

> しづのをが 刈りにし跡の 日だに経ず 一つに茂る 野辺の夏草

「一つに茂る」が面白い。

> 池の上の 菱の浮き葉も わかぬまで 一つに茂る 庭のよもぎふ

この良経の歌の本歌取りか。

> おほかたの 常は水無き 山川も 石さへまろぶ 五月雨の頃

「石さへまろぶ」が斬新。

> 春雨は 今年のみやは 花散らす 昔をかけて 今日は恨めり

> 霜の上に 寝るここちして 夏の夜の 床に影しく 月ぞ涼しき

> なには潟 堀り江にのぼる ゆふ潮の 限り知らるる 朝氷かな

> 水のおもに 散りて浮かべる 木の葉より まさりて薄き 朝氷かな

> 諏訪の海の こなたかなたに あひおもふ あまもこほれば かちよりぞ行く

少し面白い。

無名抄

鴨長明は歌がうまいんだかうまくないんだかよくわからない人だ。
確かに探すと良い歌もある。

> 時雨には つれなく見えし 松の色を 降りかへてけり 今朝の白雪

無名抄に載る。
これはもとは「つれなく漏れし」だったのを俊恵が「つれなく見えし」に直したのである。
「つれなく漏れし」ではひねりすぎていて意味がよくわからない。
「降りかへてけり」はこの軽さが良いってことにしておこう。

> 思ひやる 心やかねて ながむらむ まだ見ぬ花の 面影にたつ

悪くない。とくに「まだ見ぬ花の面影にたつ」がぐっとくる。
風雅集に採られただけのことはある。
だがそのぶん前半の「思ひやる心やかねてながむらむ」がすんなり来ない感じ。
いやこれはこれでいいんだろうけど、かなり理屈っぽい。
素直に

> まちわびて むなしき枝を ながむれば まだ見ぬ花の 面影にたつ

とかなんとか詠めばいいんじゃないかと思うのだが。どうかね。

> 吹きのぼる 木曾の御坂の 谷風に 梢もしらぬ 花を見るかな

続古今。これも悪くないがなんというか、作りすぎている感じがある。
特に「木曾の御坂の」のあたり。
深い谷間から舞い上がってくる花びら。
その梢は谷底に隠れていて見えない。
しかしこれ、長明がたまたま桜の咲く時期に木曽路を通って見た光景ではあるまい。
税所敦子の歌

> たが宿の こずゑはなれて 今日もまた 花無き庭に 花の散るらむ

と同じ趣きだが、敦子の方が自然で良くはないか。

鴨長明は後鳥羽院によって新古今和歌集の和歌所寄人の一人となったというが、
この寄人というのがよくわからん。
まず選者というのが、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人。
寄人というのはこの選者を含めて十四名いたというのだが、
その寄人には九条良経・源通親・藤原俊成がいて、
また源家長が開闔(かいこう)という出納係のような役についていたという。
良経は摂政太政大臣、通親は村上源氏の長者で正二位内大臣、俊成は言わずとしれた千載集の選者であり、
つまりこの三人は名誉職のようなものであったろう。
源家長はそんな官位は高くない。書記とかの雑務係だったか。
鴨長明もおそらく俊成の紹介で実務担当として名を連ねたものと思われる。

それである時、良経、慈円、定家、家隆、寂蓮、長明の六人がいたときに、
後鳥羽院が「春夏は太く大きに、秋冬は細く枯らび、恋旅は艶に優しく」歌を詠めと命じた。
長明は春夏の太く大き歌に

> 雲さそふ 天つ春風 薫るなり 高間の山の 花盛りかも

> うちはぶき 今も鳴かなむ 時鳥 卯の花月夜 さかり更けゆく

秋冬の細く枯らびた歌に

> 宵の間の 月の桂の 薄紅葉 照るとしもなき 初秋の空

> さびしさは なほ残りけり 跡絶ゆる 落ち葉が上に 今朝は初雪

艶に優しき歌に

> 忍ばずよ しぼりかねつと 語れ人 もの思ふ袖の 朽ち果てぬ間に

> 旅衣 たつ暁の 別れより しをれし果てや 宮城野の露

最後の歌だけが続後拾遺に採られている。
即興で詠んだから仕方ないのかもしれんが、わざわざ無名抄に載せたということは、
自信があるのだろう。
全体にちぐはぐで、主題をしぼりこめてないというか、
いろんな要素を一つの絵はがきの上にコラージュしたような印象だ。
パーツは良いんだが、全体としてみると、なんかおかしな感じがするんだよな。
後鳥羽院も苦笑いしたのじゃあるまいか。

「無名抄」は歌論書の中では割と古いんだよな。
「古来風体抄」くらい古いからかなり古い。
定家より古い。
「古来風体抄」はかなり怪しい。
俊成が晩年仏教に凝っていたのは確かであるらしいし、
そうとう長生きしたから、
「古来風体抄」のようなものをうだうだ書いた可能性もあるんだが、
やはり怪しい。
となると「無名抄」の古さが際立ってくる。
これより前には「俊頼髄脳」(「新選髄脳」のことか)とかなんとかとか、
あとは後拾遺集の序とか古今集の仮名序くらいしかないんじゃなかったっけ。
ここらへんきちんと体系化されているのかな。

で無名抄の中で俊頼髄脳に書かれている話というので、公任の息子定頼が父に紫式部と赤染衛門はどちらが優れているか、と尋ねたというのだが、
これはあやしい。
公任、赤染衛門、和泉式部は完全に同世代の人たちだが、
公任が選んだ三十六歌仙に赤染衛門と和泉式部は入ってない。
「金玉集」など調べてみないとわからんが、たぶん公任は赤染衛門や和泉式部のような同世代のとっぴな歌人には興味なかったと思う。
俊頼髄脳自体が公任より五十年も後の時代に書かれたもので、
その頃にはすで1086年成立「後拾遺集」も出ていて、
赤染衛門も和泉式部も勅撰集に載った歌人として有名になっていた。
公任の時代にはまだ歌人としてはほとんど無名だったと思うのだが。
藤原基俊や源俊頼などは「後拾遺集」より後の人で彼らが赤染衛門や和泉式部に親しかったのは当然だ。

疑いだすと切りがないのだが「拾遺集」も後世かなりいじってあるんじゃないかと思う。
「拾遺集」と「後拾遺集」の間がかなりあいていて、
公任の「拾遺抄」という紛らわしい歌集がある。
「後拾遺集」の序では花山院の勅撰ということになっていて花山院は1008年に没しているからその前に成立してないとまずいわけだが、実は公任の没後、1041年以後の産物なんじゃないのか。