ふと「エウメネス」の最初の頃のバージョンを読み返してみた。
それはこんな具合に終わっている。

> 兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

> 私は驚嘆した。王はまさしく世界の王である。この世に人類が生まれて何千年、何万年が経っただろうか。これから何万人、何百万人の王が地上に生まれるだろうか。しかし、私は彼以上に偉大な王はかつても、これからもいないと確信する。

> そんな惚けた私の顔を見て、私の心を見透かしたのか、王は照れくさそうに言った。

> 「エウメネスよ。おまえは私がやることなすことを一つ漏らさず後世に伝えたいと言っていたから、今私が兵士らの前でやったことも、一つの美談として書き残すに違いない。

> よろしい。私が死ぬまでは真実を語ってはならない。しかし私が死んだら、ありのままにこう記してほしい。

> おまえは、私があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかし違うのだ。私は用心していたのだ。私は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を横から手を伸ばして食い、兵士らが飲んでいる水を分けてもらって飲む。毒を盛られるのを怖れているのだ。

> また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。

> だが、兵が王に献上してくれた水をただ捨てたのでは、兵は腹を立て、私が兵を信頼しないように、兵も私を信頼しなくなってしまうだろう。だから私は少し演出を加えて、私がたぐいまれな克己心によって、水を飲むことを拒否したように思わせたのである。」

わかりやすい。
エウメネスは明確に王の書記官として、史官として現れていて、
王がときおりエウメネスに自分の真情を語って聞かせるのは、
エウメネスに託して後世に伝えるためだ、と書かれている。
まだアマストリナもラオクスナカもここには現れない。

さらに古いバージョンではタイトルは「メガス・バスィレウス」となっており、

> アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

といきなり沙漠の話から始まり、

> 「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

と言わせている。
これまたわかりやすい。
そして最後にエウメネスに「バスィレウス(王よ)!」と叫ばせてしめくくっている。

だが私はその後エウメネスに絡ませるため、また王が兜の水を捨てるシーンをよりドラマティックに演出するため、アマストリナというヒロインを登場させ、
さらに男女関係を複雑にするためにアパマまで追加して、
ガンダーラから話を始めることにし、スーサ合同結婚式を後書き代わりに付けたした。
またエウメネスの主観視点(一人称)の話にした。
「バスィレウス(王よ)!」というしめの台詞も省略し、

> 「私が今言ったことはアマストリナには秘密だ。他の誰にも秘密だ。なぜだかふいに、おまえにだけは打ち明けてみたくなったのだ、エウメネスよ。」

と、王はただの気まぐれでエウメネスを自分の独り言の聞き役にしたことにしてしまった。
わかりにくい。
なぜこの話はここでいきなり終わっているんだ?と不思議に思うだろう。
読者はこれはエウメネスの物語だと思うだろう。
よく読めばそうではないことがわかるが、
読まない人はエウメネスが主人公でアマストリナがヒロインのはずだが、
なんかおかしな話だなと思うだろう。

今から思えば私はアマストリナのキャラを立てすぎた。
しかもエウメネスは他のマンガの主人公になっていて、やはり余計にキャラが立ちすぎた。
ほとんどの読者はその先入観なしでこの小説を読まない。
本来、王の観察者にして読者の代理人にしかすぎないキャラが立ちすぎて、
ほんとの主人公みたいになってしまった。
書いてるうちに脇役が勝手に暴走し始めるのは私の小説ではよくある。
いつの間にかメインのキャラの一人になってしまうことがあるが、
それはそれで面白いのでほうってある。

もともとこの小説は、
アレクサンドロス大王が主人公の話であった。
アレクサンドロスというよりは、アノニマスな「王」について語る話だった。
歴史上もっとも王らしい王、典型的な王、
誰もが知っている有名でわかりやすい王という意味でアレクサンドロスを選んだが、
しかし、作中ではずっと「王」で通した。
「王とは何か」ということを読者に問う作品だからなのだ。

「王とは何か」とは私の中では「天皇とは何か」という問題であって、
それはより根源的には「武士とは何か」という問題である。
武士と天皇は相対的なものである。
その二つはもとは「王」という一つのものであった。
私はずっとこの問題について考えてきた。
私の歴史小説は要するにその問いに対する解答を記述しているものだ。

もしエウメネスが「王よ!」と叫ぶ台詞であの小説をしめくくっていれば、
或いは「メガス・バスィレウス」というタイトルであれば、
私の意図はもっとわかりやすかっただろう。
しかし私は読者をもっと作中に没入させ、自分の問題として考えさせたかった。
FPS (first person shooter) の手法を借りて。
つまり作者はどうしても神の視点から物語を作ってしまう。
神がいろいろ親切にヒントを与えてしまう。
それは避けたい。
プレイヤーはノーヒントでいきなり現実の中に投げ込まれる。
そして自分で答えを見つける。
そういう小説にしたかったのだ。
そう、ハーフライフ2のように。

もし王がそういうふうに自分だけに真情を吐露したときに、
自分ならそれに対してどう思うか。
怒るかもしれない。
あきれるかもしれない。
がっかりするかもしれない。
余計に王を好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。
だが、エウメネスに「王よ!」と叫ばせてしまうと、
その答えを作者が提示してしまうことなる。
それは避けた。
読者に私とは違う解釈をする余地を残したつもりだった。

だが、そこまでたどり着けた読者がいただろうか。
そう、私自身、当初の意図がわからなくなりかけている。
まして私以外の人が正確に読み解くことができようか。

エウドキアや江の島合戦はもっと読者に親切に書いてある。
私が読者というものを以前より信頼しなくなったからでもある。

> もしおまえが苦痛に快楽を覚え、快楽に苦痛を感じるようになれば、おまえもまた王の仲間入りをしたのである。

> 王は、戦場にいて、勝ち続けているうちだけが安全なのである。

> 王は、自ら偶像を演じねばならぬ。

だが一方ではこんな具合に「王とは何か」という答えを王に言わせてしまったりしているから、
難易度はいくぶんか下がっているはずだ。
たぶんこれも読者にはわかりにくいと思う。
私はバブルの絶頂期に隠者のような仕事を選んだ。
世の中が安定を求めるようになると転職した。
他人と逆のことをやるのが正しいと信じているところがある。
それが「王」に対するシンパシーになっているのだが、
多くの読者には共感できないだろう。
こんなふうに種明かししない限りは。

なぜこの話はこんな中途半端な終わりをしているんだろう。
作者の意図は何か。
作者はたぶん読者を突き放して、ラストは自分で考えよと言っているらしいな。
読者はそこまではたして気づくものだろうか。
私自身久しぶりに読むとそこがとても心許ない。

ジグソーパズルは途中まで組み立てれば何の絵が描かれているかはわかる。
残りは読者の想像に任せよう、自分と同じように補ってくれるかな。
それとも全然違う絵で補間してしまうだろうか。
そんな楽しみはある。
「川越素描」も長編なのに「素描」と言っているのは、
書かれていないことの方がずっと多いからだ。
ある意味私の作品はすべて素描だ。
細密画のようにすべてを緻密に描きこんでいるわけでない。

情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

> 情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。
風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。

割註があり、

> 求人之未詠之心詠之

人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む

> 詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。
ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

> 不論古今遠近、見宣歌可效其体。

古い新しい、遠い近いに関わらず、良い歌を見て、その体に倣うべし。

情と詞の関係はつまり古今集仮名序
「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と同じである。
真名所の
「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」
とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に
「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。
油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、
今では古典的な画材である。
だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。
アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。
新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、
古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。
まあそれはそれでいい。
新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。
しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。
今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、
和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

> 誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、
広学多聞を事とすべきにもあらず。
ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。
また、

> いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、
よまぬ上はただ知らず。
よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、
これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。
でまあ為世は割とまともな人だなと思った。
むしろ為兼の歌論はひどい。
歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、
歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、
「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。
「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、
ただ「体」とも言うのだが、
これがよくわからない。
古今集真名書にも出てくる。

> 華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

> 僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

> 文琳巧詠物。然其近俗。如賈人之着鮮衣。

> 文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。
いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

> 大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而甚鄙。如田夫之息花前也。

> 大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。
あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

宇都宮氏、飛鳥井雅経

宇都宮氏、小山氏、結城氏、などというが、
いずれも頼朝の頃に現れた下野の御家人である。
或いは義家の頃からすでに源氏の御家人であったかもしれぬ。

結城は小山の分家だが、
宇都宮頼綱が小山政光の養子(単に養われただけ?)になっていることからみても、
この三氏は同族とみてよく、
要するに、下野氏とでもいうべき、下野国の豪族である。
清和源氏とか言っているがただの嘘だ。
鎌倉幕府が出来たから庶民に姓が出来、武家が出来、本家や分家が出来たわけだが、
下野の勢力は幕府の中でもかなり重い位置を占めていたはずだ。
結城朝光は小山政光の実子なので、頼綱と朝光は一応兄弟ということになる。

この三氏のうち宇都宮氏だけが歌人(と関係のある人)を出している。
頼朝、実朝ともに歌が好きだった。
宇都宮成綱の子で頼綱の弟・塩谷朝業(宇都宮家から塩谷家に養子に行った。下野国塩谷荘)は実朝の歌仲間だったという。
吾妻鏡に朝業の歌として、

> 嬉しさも 匂ひも袖に 余りける 我がため折れる 梅の初花

があるという。

宇都宮頼綱は藤原為家の義父であり、従って定家の義弟である。
例の小倉百人一首も頼綱の求めによって選んだことになっている。

ウィキペディアには、

> 宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。

などと書かれているが、こんなにひどい「日本三大」にはなかなかお目にかかれない。
ワースト日本三大のかなり上位にくると思う。

頼綱は出家して蓮生という名の歌人として知られて、
実際勅撰集にもやや採られているようである。
綺麗なだけで心のこもってない歌に思えるのだが、一応さまになっていて、
まあ、武家でこのくらい詠むのは当時としては珍しいかもしれん。

飛鳥井雅経はもと父とともに鎌倉に護送されたが、
頼朝に好かれて、その猶子となる(つまり鎌倉の生活費をまかなわれる)。
定家と実朝の間の交流も雅経によるらしい。
雅経は定家の八才年少であり、雅経は歌がうまかったというよりは定家の門弟というので、
ありがたがられたのだろうと思う。

飛鳥井雅経の父・難波頼経は藤原氏らしいのだが、よくわからん人だ。
義経の同盟者であったというから、後白河法皇と近かったと思うが、
ごく平凡な公家だったのだろう。
義経の関係で親子共々鎌倉送りになったのだが、
それが息子には幸いしたということか。

雅経の孫娘が二条為氏の妻になっているから晩年はそれなりに二条家と親しかったのだろう。

問題は、宇都宮頼綱と藤原定家の間でどうして縁組みがあったか、なのだが、
よくわからん。
定家から見れば宇都宮氏なんてのは下野国の野人に過ぎない。
ただ歌が好きで意気投合したというのではあるまい。まあ、100%あり得ない。
承久の乱で京都は没落し鎌倉が力をつけた。
宇都宮氏は有力な鎌倉の御家人である。
かつ頼綱は富豪でもあったらしい。
定家は食うに困ったかもしれない。
そこで頼綱と縁組みする代わりに小倉山に所領をもらった。
定家が自分の甲斐性で別荘なんて持てるだろうか。
そう考えると、明月記の

> 予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之(私に書くようにと蓮生入道がしつこく頼むので、はなはだ見苦しいことではあったが、無理矢理書いて送った)

というのはただの謙遜ではなくて、ほんとにいやがっていたかもしれんわな。
ていうか今でもアーティストが自分のパトロンにこんな愚痴を言ったりするだろ。
嫌だけど金と力のために仕方なく書いた、みたいなニュアンスかもしれん。
飛鳥井雅経と宇都宮頼綱が鎌倉ですでに懇意であったとすればよりすんなりいく。
難波頼経と宇都宮氏にもなんらかのつながりがあったか。

百人一首と定家

[百人一首](/?p=14380)、
[百人一首2](/?p=14400)、
[百人一首3](/?p=14456)、
[百人一首への招待](/?p=14511)、
[定家私撰集](/?p=14518)などの続きです。
定家の私撰集と百人一首を比較してみた結果を[表](http://tanaka0903.net/libroj/teika_private_selections.pdf)にしてみた。
間違いもあるかと思うがだいたいの傾向はつかめると思う。

ここで言えることは、小倉百人一首もしくは百人秀歌で定家による選と考えて問題ないものは、

天智天皇
> 秋の田の かりほのいほの とまをあらみ 我がころもでは 露にぬれつつ

柿本人麻呂
> あしひきの 山鳥のをの しだり尾の ながながし夜を 独りかもねむ

文屋朝康
> 白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

在原行平
> たち別れ いなばの山の 嶺におふる 松としきかば 今帰りこむ

小野小町
> 花の色は うつりにけりな 徒らに 我が身世にふる ながめせしまに

壬生忠岑
> 有明の つれなく見えし 別れより あか月ばかり うきものはなし

紀友則
> ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ

恵慶
> 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそみえね 秋はきにけり

坂上是則
> 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野のさとに 降れる白雪

清原元輔
> 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

この程度である。

これに対して定家が選ぶ可能性がほとんどないのは、

藤原興風
> 誰をかも 知るひとにせむ たかさごの 松も昔の 友ならなくに

陽成院
> 筑波ねの 峰より落つる みなのがは 恋ぞ積もりて ふちとなりぬる

源融
> みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに

紫式部
> めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな

源宗于
> 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

藤原敦忠
> あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

平兼盛
> しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものゃ思ふと 人のとふまで

藤原朝忠
> あふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

藤原定子
> よもすがら 契りしことを 忘れずば 恋ひん涙の 色ぞゆかしき

三条院
> 心にも あらで憂き世に 長らえば 恋しかるべき 夜半の月かな

高階貴子
> 忘れじの ゆく末までは かたければ けふを限りの 命ともがな

藤原道綱母
> なげきつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る

能因
> あらし吹く みむろの山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

壬生忠見
> 恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知らずこそ 思ひそめしか

藤原定方
> 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな

藤原兼輔
> みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋ひしかるらむ

藤原定頼
> あさぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

藤原実方
> かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

清少納言
> 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は 許さじ

赤染衛門
> やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

大江匡房
> たかさごの をのへの桜 咲きにけり とやまのかすみ 立たずもあらなむ

藤原義孝
> 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

待賢門院堀川
> 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

大弐三位
> 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

周防内侍
> 春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなくたたむ 名こそ惜しけれ

藤原顕輔
> 秋風に たなびく雲の 絶え間より もり出づる月の かげのさやけさ

道因
> 思ひわび さても命は あるものを うきにたえぬは 涙なりけり

源国信
> 春日野の したもえわたる 草の上に つれなく見ゆる 春のあは行き

藤原公任
> 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

俊恵
> よもすがら もの思ふころは あけやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり

徳大寺実定
> ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる

皇嘉門院別当
> なにはえの あしのかりねの ひとよゆえ 身をつくしてや 恋わたるべき

藤原長方
> 紀の国の ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに あひみてしがな

殷富門院大輔
> 見せばやな をじまのあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず

後鳥羽院
> 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

順徳院
> ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

藤原家隆
> 風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

藤原定家
> 来ぬ人を まつほのうらの 夕凪ぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ

九条良経
> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

式子内親王
> たまの緒よ たえなばたえね 長らへば しのぶることの 弱りもぞする

慈円
> おほけなく うきよの民に おほふかな 我が立つそまに 墨染めの袖

寂蓮
> むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ち昇る 秋の夕暮れ

二条院讃岐
> 我が袖は しほひに見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

飛鳥井雅経
> みよしのの 山の秋風 小夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり

源実朝
> 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまのをぶねの 綱手かなしも

西園寺公経
> 花誘ふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり

こんなにたくさんあるのである。
明月記によれば天智天皇と家隆と雅経の歌は採ったことが確実なのだが、
家隆の歌は定家の趣味で言えば

> あけば又 こゆべき山の 峯なれや 空行く月の すゑのしら雲

であった可能性が高い。
雅経の歌に至っては私撰集には一つも採っていないので、どれが好みかはわからない。
定家が小倉山の麓、嵯峨野の山荘で選んだ、
いわゆる小倉百人一首の原型ともいうべきものが、
定家の私撰集と全然違う傾向で選ばれた可能性は低いと思う。
私は、今小倉百人一首と呼ばれているものは、
定家の趣味からはかなり離れて、自由に選ばれたものじゃないかと思っている。
誰が選んだかは特定できないが、
でも誰かが選んだ可能性があるとすれば、
定家の子の為家ではなくて、
西園寺公経か、九条良経の子女のだれか、或いはその周辺の人で、
特に順徳天皇に近かった誰かではなかろうか。
公経、良経はどちらも太政大臣である。
為家の趣味ともかなり違っていると思う。
たとえば良経の娘立子は順徳皇后で仲哀天皇の生母である。
立子の関係者が順徳院や後鳥羽院の歌を小倉百人一首に入れた可能性はあるだろう。
或いは続後撰集に採るように為家に運動したかもしれない。
などと考え出すと話はとたんに歴史小説めいてくるわな(笑)。
慈円も怪しいなあ。
その辺を小説仕立てにして一本書けそうな気もするが、
かなり地味な話になりそうだわな。

新勅撰の西園寺公経の歌があまりにも唐突に採られているし、
順徳院や後鳥羽院の歌に雰囲気が似てるのだよね。
慈円の歌も意味深だし。
九条良経はよほどの歌好きだったわな。
たぶん定家のパトロンみたいな人。
悪くもないが、そんな優れた歌ではないが定家はたくさん私撰集に載せている。
パトロンへの表敬か。
慈円もそんな歌うまくない。九条家のつながりだと思う。

そうね。九条立子あたりをヒロインにして、その遺言で、定家の名で、
百人一首に仕立て、続後撰集に順徳院の歌を採るよう為家に運動したとかいう話にできなくもない。
でもたいへんだよ。調べなきゃいけないことたくさんあるからなあ。
百人一首だけじゃない。承久の乱の話書かなきゃ。
となると北条泰時も絶対書きたくなるし、ねえ。
でも誰も読みそうにないなあ。
続後撰集成立の頃の執権は北条時頼かあ。
泰時はいかにして時頼を育て教育したか。
しぶいねえ。
話がしぶすぎて泣ける。
書こうと思えば書けるが、たぶんものすごい長編になるし、
おそらくその十倍ぐらいの解説を書かないと読めない。
つまり読むことが不可能な小説になる。

定家は、父俊成の歌は別として、身内の歌は私撰集に採らない傾向がある。
雅経は門弟だし、
実朝はその友人、
式子内親王とも親しかったはずで、
自分の別荘か義理の弟の別荘かはしらんがそういう私的な家の障子に書く歌であるから、
身内の歌も採った可能性はある。
だが、どの歌を採ったかはまるでわからん。
雅経も実朝も式子内親王も定家はそれらの歌を選んだことがないからだ。

定家が天智天皇のあの凡庸な歌を貴ぶのは藤原氏であるからだ。
たぶん藤原一族の祭祀に用いられた歌なのではなかろうか、アレは。
藤原氏の権力はもとをたどれば大化の改新。
天智天皇と中臣鎌足で蘇我氏を滅ぼしたクーデターだ。
だから天智天皇は藤原氏にとっては特別な意味がある天皇。
古歌を適当に見繕ってわざと牧歌的な、いかにも帝王調な歌を作った。

> 高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり

みたいな歌が欲しかったんだと思うよ。
天智天皇の真作である可能性はほとんどまったくない。

まあだから藤原氏でなくて例えば紀貫之だったら百人一首はあんな構成には絶対ならなかっただろう。
宇多天皇や村上天皇もどちらかと言えば藤原氏に冷淡だった。
醍醐天皇はまだ比較的許せたので定家は私撰集に採っているのかもしれんよ。

天智天皇に始まり順徳院に終わるこの小倉百人一首というものは、
順徳院縁故の藤原氏の誰かが作ったものであろうと考えて、
およそ当たっていると思う。
定家、為家、為氏、為世と続いたいわゆる歌道の家である二条派、
というよりも、より順徳院に近かった摂関家、つまり九条家か西園寺家であったろうと、
今は推定しておく。

百人一首には採られてないが、定家が好きな歌というのも興味ぶかいですよね。

柿本人麻呂
> さを鹿の 妻どふ山の 岡べなる わさ田はからじ 霜はおくとも

在原行平
> さがの山 みゆきたえにし せり河の ちよのふるみち あとはありけり

在原行平
> わくらばに とふ人あらば すまの浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ

伊勢
> 思ひ川 絶えず流るる 水のあわの うたかた人に あはで消えめや

元良親王
> 逢ふことは とほ山鳥の かり衣 きてはかひなき 音をのみぞなく

源経信
> きみが世は つきじとぞ思ふ 神風や みもすそ川の 澄まむかぎりは

源等
> 東路の さのの船橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人のなき

藤原道信
> 限りあれば けふぬぎ捨てつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり

和泉式部
> もろともに 苔の下には 朽ちずして うづもれぬ名を 見るぞかなしき

源俊頼
> 思ひ草 葉ずゑにむすぶ しら露の たまたま来ては 手にもたまらず

源俊頼
> なにはえの もにうづもるる たまがしは あらはれてだに 人をこひばや

西行
> 秋篠や 外山の里や 時雨るらむ 生駒の岳に 雲のかかれる

藤原俊成
> 如何にせむ むろの八島に 宿もがな 恋の烟は 空にまがへむ

> 立ち帰り 又も来てみむ 松島や 小島のとま屋 浪にあらすな

> 袖の露も あらぬ色こそ 消え帰る うつればかはる 歎きせしまに

> 桜さく 遠山鳥の しだりをの ながながし日も あかぬ色かな

読人不知
> 名取川 瀬々の埋もれ木 あらはれば 如何にせむとか あひみそめけむ

> 秋風に さそはれわたる 雁がねは ものおもふ人の やどをよかなむ

なんか、意外なんだよね。
定家の知らない側面を見たっていうか。
「ものおもふ人のやどをよかなむ」とか「たまたま来ては手にもたまらず」とか
「生駒の岳に雲のかかれる」とか。
えっ、定家って実はそういう素朴な剽軽な感じなのが好きなのかっていう。
小倉百人一首と全然違う。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、
景樹がそれに反論を試みたものである。
四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。
古今集をまねてはいけない。
実朝のような歌を詠め、などと言っている。
正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。
子規がまねたわけだが。
景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。
その理由がつらつら書いてあり面白い。
適当に意訳すると、

> 人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。
その古人の偽りなきにならうのである。
ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、
古人のように真心を歌ったのではない。
後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、
ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。
卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。
漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、
ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、
万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、
それを言うのだろう。
実際実朝の歌をまねしてはならない。
ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。
景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。
歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、
まず正岡子規に叩かれ、
それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、
俳句ならなんとかひねりだせるがまともな和歌など詠めない連中が子規にならって攻撃したせいで、すっかり悪者になってしまった。
それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、
彼の言うことはまったくもって正しい。
実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、
実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、
そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、
そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、
まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。
それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、
そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。
これまた面白いので引用しておく。

> 香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。
知らんな。
昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

> 苔よりも雪の花咲け塚の上

> 五月雨やある夜ひそかに松の月

> つちくれにうごく物みな蛙かな

> 世の中は三日見ぬ間に桜かな

> かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。
都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。
江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

> 歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

> 未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、
違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。

> 彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、
大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、
ただ古き世にのみかへらんとす。

> そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、
事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、
ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。
「短歌」という呼び名は間違っていないが、
「和歌」を短歌というようになって、
「やまとうた」というニュアンスが失われた。
大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、
五七五で季語を入れれば俳句、
季語が入ってなければ川柳、
五七五七七と少し長くすれば短歌、
そんなふうな位置づけになってしまっている。
単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。
「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、
形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。
「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、
私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

> いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、
千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、
大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

> 唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。
ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、
今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。
和歌には和歌のけじめがあると言っている。
「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。
同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、
蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。
真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。
古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。
私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。
和歌にはすでに定型詩という制約がある。
そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。
定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。
時代考証ができなくて歴史物など書けない。
それと同じではないか。

> 思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。
それが普通の人にはなかなかできぬ。
景樹の言いたいことを代弁してみると、
中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。
ラテン語が共通語であった。
日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、
古今集や源氏物語がその規範であった。
景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、
大和歌だったのだと思う。
景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。
平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。
完全な和語である。
きちんと使い分けている。
古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、
歌を詠むことができる。
そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。
しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。
俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。
ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。
それが良くない、と私は言いたい。
それはルール違反だ。
短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。
和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、
伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。
ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。
新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。
ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。
なじみ深いから新語は造りにくい。
だがそこはなんとかしなくてはならない。
香川景樹や上田秋成をみよ。
宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。
みんな感覚で批判しているだけだ。