「いただく」と「くださる」

例によって病院で処方箋もらってドラッグストアで薬出てくるのぼーっと待っていたのだが、
店内アナウンスで、最初に
「本日のご来店まことにありがとうございます。」とか
「ご来店いただきましてありがとうございます。」という枕で始まって
「ご来店いただきましてありがとうございました。」でしめている。

で、
竹田恒泰という人が
[問題 次の文の誤りを正しなさい。「ご来店いただき、ありがとうございました。」](https://twitter.com/takenoma/status/487542912381493249)
などと言っているわけだが、正解は
「ご来店くださり、ありがとうございました。」
なのだそうである。
はて。何か変ではないか。

この理屈で言えば、
「ご宿泊いただきありがとうございました。」
「お召し上がりいただきありがとうございました。」
などもダメで、
「ご宿泊くださりありがとうございました。」
「お召し上がりくださりありがとうございました。」
でなくてはならないことになる。

ここでは「お客様にご来店いただいた」
「お客様にご宿泊いただいた」
「お客様にお召し上がりいただいた」ことに対して、
店主や従業員が「ありがとうございました。」とお礼を言っているだけのことであって、
特別問題とは思えない。

「いただく」は「もらう」の謙譲表現、「くださる」は「くれる」の尊敬表現。
「もらう」は動作の主体が自分だから謙譲、
「くれる」の動作の主体は相手だから尊敬になっているにすぎず、

> 客に来てもらう

> 客が来てくれる

のように「に」「が」と助詞が異なり、
それぞれ

> お客様にご来店いただく

> お客様がご来店くださる

となる。

> 客が来る

ならば対応する表現は

> お客様がご来店になる(ご来店なさる)

となるだろう。

では違和感があるのはあとに続く「ありがとうございます」「ありがとうございました」だろうか。

竹田氏は
[嬉しく存じます](https://twitter.com/takenoma/status/487546879983370240)
なら良いといっている。
おそらく主体が店側にあるということが明確になるから良いと言いたいのだろう。
だが、「嬉しく存じます」が良くて「ありがとうございます」がダメな根拠は何か。
「ありがたく存じます」ではどうか。
「ありがたく存じます」と「ありがたく御座います」の違いは何か。
この程度の表現の揺れは時代とともにあるのであり、
文法的に問題がないのであれば許容すべきだ。
センター試験のマークシート問題のひっかけみたいなことにいちいちこだわるべきではない。

「ありがとうございました」となるのは上に書いたように店内アナウンスの都合であり、
やはりこのくらい許容すればいいじゃないか。
間違っているとまでいう必要があろうか。
というか、
「いただく」は謙譲語だから客の動作に言うのはおかしいと反射的に考えているだけのように思える。

話は変わるが「させていただく」は「する」を無理矢理謙譲表現にしたものだが、
気持ち悪い。逆に恩着せがましい。
浄土真宗に由来するとも聞く。
「する」の謙譲表現は単に「いたします」で良いじゃないかと思う。

自殺

すでに誰か指摘していることだと思うが、
夏目漱石の「こころ」では「K」がまず自殺し、次に乃木希典が妻を巻き添えにして殉死という形で自殺し、
最後には「先生」も自殺してしまう。
この小説のテーマが自殺であることは紛れもない事実だ。
なぜ高校の教科書に必ずと言ってよいほどに「こころ」が掲載されているのか。
自殺した作家も多い。
すぐに思いつくだけでも病気を苦にして死んだ芥川龍之介、情死した太宰治。
三島由紀夫も自決という形で自殺したし、
江藤淳も妻を追って自殺した。
他にもいるかもしれないがこのくらい挙げれば十分だろう。

日本は自殺が多い国だが、この特殊な、近代日本文学の影響は当然あるだろうし、
そうした状況で、「こころ」が必ず教科書に採られるというのは異様な気がする。
自殺防止に躍起になる一方で自殺を美化しているような。

小説やテレビドラマでは死、殺人、自殺があふれていて日本人は不感症になっている。
だから別に高校教科書だけ健全でも仕方ない、影響ないと言えばいえるかもしれない。
実際古代ギリシャ悲劇にも死や殺人はつきものだ。
アガメムノーンの娘イーピゲネイアも、神に犠牲として献げられる形で自殺している。

だが、それにしても「こころ」は大した話の盛り上がりもないのに、
「K」「先生」の二人が自殺するというのは異常ではないのか。
高校生の頃は案外読んでもピンとこないものだが、
年をとってから改めて考えてみるとどうにも疑問だ。
少なくとも夏目漱石は日本の高校生全員に読んでもらうためにこれを書いたはずない。
きっとあの世で困っているに違いない。

「こころ」以外にもいくらでも良い小説はある。
菊池寛とか志賀直哉とか吉行淳之介とか安岡章太郎とか。
志賀直哉にしても「城の崎にて」よりかは「清兵衛と瓢箪」とか「小僧の神様」のほうがすっと面白い。なぜ高校生に「城の崎にて」を読ませる必要があるのか。
芥川の「羅生門」にしてもそうだ。
どうも終戦直後の暗い雰囲気をいまだに引きずっている感がある。
個人的には葉山嘉樹が好きだ。「セメント樽の中の手紙」とか。
中島敦にしても「山月記」でなく「名人伝」ではなぜいけないのか。

「こころ」「城の崎にて」が「小僧の神様」「名人伝」に置き換わるだけで国語教育の雰囲気は全然変わってくると思うのだが。

詩人は伊東静雄が良い。「春のいそぎ」とは言わぬ。
「わがひとに与ふる哀歌」「水中花」「そんなに凝視めるな」などをなぜ読ませないのか。
なぜいつもいつも中原中也や宮沢賢治なのか。

みささぎにふるはるの雪
枝透(す)きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉ぢ百(もも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来むとゆきふるあした

「みささぎにふる」「はるの雪」ではないのだな。
「みささぎに」「ふるはるの雪」なんだな。
七五調かと思わせておいて五七調。
そこがトリッキーなのだが。

そんなに凝視(みつ)めるな わかい友
自然が与える暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視(みつ)めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答えであり
耐える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永く凝視(みつ)めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

伊東静雄は46才で死んだのか。私が死に損なった年ではないか。はは。
「春のいそぎ」が戦中で「そんなに凝視めるな」が戦後だ、というヒントだけで、
勘の良い人には詩の意味するところがわかるだろう。

それから、俳句や、まして短歌を詠ませるな。
まして自由詩を作らせるな。
代わりに都々逸を詠ませれば良い。あれはもともと口語で歌うもので、
誰でも比較的簡単に作れる。
そうすれば詩とは何か、歌とは何かということがわかるに違いない。

シンクロ率

小説を書けば書くほどにわからなくなっていく。
著者と読者が共感できる話を私は書けないのだろうか。
読者と、せめて50%くらいはシンクロしたい。
100%はまあ無理として(著者しか知らない裏設定などがあるから)80%とか90%くらいは普通にシンクロしたい。

だが現状は10%くらいだと思う。
どうしてこうなってしまうのか。

120%くらい理解してくれる読者がいてくれるとうれしいのだが。
つまり、私が隠しているつもりの裏設定までみやぶり、
私自身も気づいてない私の深層心理までも指摘してくれるような。

著者不在読者万能

私の小説の中では「エウメネス」「エウドキア」がよく売れている方なのだが、
比較的マイナーなはずのエウドキアが売れている理由がよくわからなかった。
だがオタクの世界では、エウメネスほどではないにせよ、エウドキアはよく知られたキャラであり、
エウドキアがどんな人であったか知るために(もしかすると二次創作のための設定資料として)ポチる人が多いのではないか。
私以外の全然別の人が全然別の話を書いても同じくらいには売れたのではないか。
とすれば私という書き手は不要であり、不在であり、存在するのは読者だけということになる。
私が書かなくてはならない必然性がない。

本を売るということは、それを買う読者がいるということであり、
ようは読者万能ということである。
同じ事はすべてに言える。
政治家にしろ君主にしろ、近代・現代は国民万能時代だからどうしてもそうなる。
売れっ子ライターやアルファブロガーなどみんなそうだ。
ツイッターではそういうよく読まれる人のことは、なんと呼ばれているのだろか。

私は話の中で登場人物を死なせるのが嫌いだ。
もちろん歴史小説では死ぬが、それはその人が死ぬことが歴史的に確定しているからだ。
私が勝手にこしらえた人物を殺すのは忍びない。
ほとんど唯一の例外は墨西綺譚に出てくる乾長吉だが、墨西綺譚は今は非公開にしている。

石原慎太郎、村上龍、山田詠美、村上春樹などの流れをみると、
読者はあきらかに暴力やセックスを求めている。
ラノベにすらその傾向はある。
ミステリー・ホラー小説もつまるところ人が殺されるからおもしろがって読むのだ。
人が死なないミステリーなどほとんど見向きもされないだろう。

私の場合、男女が恋愛関係に至る過程を書くことはあっても、恋愛関係そのもの、つまり情事を書くことはほとんどないが、
それも一般読者には不満だろう。

村上春樹から暴力やセックスを差し引いたらあんなに売れると思うかね?

砂丘

最近になってミュートとリストという機能をおぼえて、割とほんきでツイッターを使い始めた。

小説を書いて公開していて思うことだが、
こういうコミュニティは閉じていて、
一定以上の読者を獲得するのは難しい。
いろんなコミュニティを渡り歩くのは有効ではあるが、
結局いつかは頭打ちになる。
ツイッターはいろんな人たちがいるからコミュニティが閉じてないというか、コミュニティが非常に広い。
そういう世界で地道に人をフォローし、人からフォローされることは、
いわゆる名刺を配る的な営業のようなもので、
やってみる価値はあるんじゃないかと思い始めた。
Adwords なんか広告使う気にはあまりなれない。
現在やっと2000の壁超えたばかりくらいだが、2000フォローしているうち1000くらいはミュートしてると思う。
ミュートしているのは営業とボットが多いだろう。
ミュートしてないけどそもそもあまりツイートしない人もいるから、
素で読んでるのは500くらいか。
それでも多い。

リストもかなり使っていて、
こちらはどうせフォロー返ししてくれなさそうなw有名人や政府機関なんかが多い。
ボットもフォロー返ししてくれなさそうなのはリスト。

すべてのリストを公開しているわけではない。

一度やっと二桁くらいリツイートされたことがあり、
はあ、こんなことリツイートするんだなあと感心した。

世の中にはプロと素人と、その中間にいてプロになろうとしている連中がいるのだと思っていたのだが、
小説家になろうなんかを読んでると、なかなかプロに匹敵する素人はいない。
おやなかなか面白いなと思い著者名で検索してみると本出版してたりするのだが、
あーさすがにプロだなと思い出版社を確認するとどうやら自費出版らしい。
それじゃkidle本と変わらん。
ブロガーなんかは割と中間層が厚いように思うが、作家はなんか中間層がほとんどいない気がする。

[砂丘](http://ncode.syosetu.com/n4642ce/)
はわりと本気で書いた短編だが、
こういうのを子供向けのラノベとか転生ものがはやりの「なろう」に載せるのは嫌がらせみたいなもんだろう。
「なろう」見てて思うのは、いきなり超能力とかファンタジー出してくるリアリティ完全放棄なものか、
それただの実話だろうみたいなリアリティはあるがフィクション性が希薄なもの。
非リアルとリアルの中間くらいにフィクションというものはあるべきで、
そのチューニングが創作活動だと思うんだが、
良質なフィクションというものが「なろう」にはほとんどない。
それだけフィクションをこしらえるってことは難しいんだよなといまさらながら思う。

良くあるパターンは、
私の名前はなんとかです、年はいくつで身長はいくつ、髪の毛の色はとかキャラの紹介から入るやつとか、
なんだよそれとか思う。
それただの設定資料だろと。
あと自分の知ってる居酒屋でああしたこうしたとか。見たまま聞いたまま体験したままを書いてて起承転結のないやつ。
起承転結はあったほうがよい。起承転結にかわるなにかオチがあればなおよい。
しかし何も無いやつはただの日記かエッセイであり小説じゃないだろと思う。
ていうかそんなのはブログに書けよと思う。
だからブログは素人にも書きやすいんだろうけど。

プロットも、面白いなと思ったら、よく考えるとテレビドラマなんかで使い回されてるようなもので、
途中で連載放棄してたりしてすごくなえる。
携帯でちまちまと長編小説書いているやつとかいるのだが、
なんだよそれ自己満足?とかしか思えないものばかりだ。

私は自分と同じような小説を書く人を探している。
でもなかなか見つけられなくて困っている。
もしかしたらそんな人は存在しないのだろうか。
同時並行して私の小説を面白いと感じてくれる人を探している。
そういう人たちに私の小説が目に触れる方法を探している、というべきか。