春一番吹きたる日に酔ひて詠める

ツイッターにツイートしたのを適当に直してある。

> つれづれと 行き交ふ人を ながめつつ いくさかづきを けふもかさぬる

> しるしなき ことを思はず しるしなき 酒だに飲まで 世を過ぐさまし

> おほかたの 酒てふ酒は 飲みつれど 我が世に何の 慰みはありし

> 浮かれよと 春のあらしは 吹きぬれど 酔ふほど沈む 我が心かな

> 春は来て 人みな春に 酔ひしれむ 千代よろづよの 春のごとくに

> 春を待つ 心づもりも なきままに けふしもまだき 春風ぞ吹く

> いまさらに 春はたのまじ 春来とて やまひの癒ゆる ものならなくに

> 使ひても むなしきものは ひとときの 酔ひをあがなふ 金にぞありける

> あらがねの 土より生まれ あらがねの 土へとかへる 我が身なりけり

> 五十路にて 名を残したる 信長に 我もならまし 焼け死なむとも

最近何もなくてもじんましんとか胸焼けがするようになったのは、
病気、あるいは、
病気を抑えるための薬からくるストレスではなかろうかと思うのよね。
あるいは更年期障害?
よくわからんが体調があまりよろしくない。

宮家

tenno4

思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」
というのはなんかおかしな感じである。
誰がそんなことを言い始めたのだろうか。
佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。
かといって親王宣下されたわけではない。
だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。
だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、
それを言い出した人はそうとうな山師だ。
まったく同じことは後南朝でも起きた。
後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、
例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、
北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。
これは南朝に対抗するために違いない。
特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、
持明院統と特別に対立しているわけではない。
かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。
また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、
京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。
彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、
本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。
これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。
これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。
閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、
戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。
せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、
全滅してしまっている。
白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。
むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、
まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、
伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。
これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。
その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、
百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。
すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。
ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、
いつ王国が復活するかわからないわけだが、
余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。
一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、
中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。
それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、
宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。
それは室町期でも同じだ。
皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。

最近なんどかつづけてじんましんが出たり、胸焼けしたりして、
薬も少し変えたし、体調悪いんだか、体力落ちてるんだか、ともかく健康がいろいろ不安。

胸焼けの理由はたぶんある種のマーガリンかバタークリームだろうと思う。
謎のチョコレートや謎のトルコ料理などで当たるらしい。

じんましんは、たぶん外食でなんか変なもの食べたんだと思うが、
生ものかなと思うのだが、あちこちハシゴするので特定しにくい。
ていうかハシゴやめたほうが良いと思う。
ともかく体大事に。

身内はどちらかと言えば長生きな人が多いのだが、
私はそれほど生きられない気がする。
五年前心臓やられて以来何時死んでもおかしくない状態が続いているのだが、
それでも飲み歩きはやめてない。

調べれば調べるほどに謎は増える。
知らないでいれば知ってるような気でいるが、
少ししってしまうと謎が謎を呼んで増殖していく。
ヨハンナ・シュピリにしてもそうだ。
ドイツ語の文献に直接あたればほぼ完全に調べられるはずだ。
しかしそういう文献にあたるのがはげしくめんどくさい。
たぶんチューリヒ辺りに数年住んで図書館通いしてりゃ調べられるんだけど、
今更ドイツ文学の研究者にはなれない。
若い頃からずっとそうだったらともかく。
やらないよりはやったほうが良いことはいくらでもあって、
でもそれ全部やっていると寿命が足りないから、手をつけられないことはある。

最近なんとなくわかってきたが、ドイツ語の文献を直接日本語に訳す人はまあいない。
もちろんドイツ語がすごく得意な人ならできるのかもしれない。
しかし普通は、ドイツで人気が出て、それがアメリカで紹介されるなり訳されるなりして、
それから英語とドイツ語原文を見比べると、かなり安全に邦訳できるわけだ。
そこまでこないと普通日本には伝わってこない。
ドイツのニュースなんかもだいたいそうだわな。
なんとなくだが telegraph とか guardian みたいなイギリスのジャーナリズムが英語で紹介して、
さらにアメリカに行って、そこから日本に来てる感じがする。
もちろんドイツ語のニュースを直接読んでいる人はたくさんいるに違いないが、
英語で裏を取るとか、重要性をフィルタにかけるとかしてる感じがする。
つまり何が言いたいかと言えば、
僕等は、わざわざアメリカというメガネを通してドイツを見てるってこと。
つまりアメリカ以外何も見てない見えてないってことになるかもしれない。

ヨハンナ・シュピリはまずその作品のすべてが英訳されているわけではない。
書簡や伝記もまあ普通に訳されてない。
書簡全部読んでヨハンナの人間関係徹底的に洗い出せば、
小説に出てくる人物のモデルをかなりの精度で特定できるはずだ。
その作業をしたい気もするが、めんどうくさい。
それよりか、日本人として、きちんと和歌とか、定家とか、宣長とか、小林秀雄とかを調べたほうが良い気がする。
そういう文献は、最悪でも国会図書館に行けば入手できないものはないだろう。
まあ、崩し字で書かれてたりどこかの大学図書館にしかなかったりすると泣きそうになるが、
どうしても必要ならば調べて調べられないことはない。
しかしドイツ語だともうどうしようもない。
どうでも良いところで手間ばかりかかるということになる。
ウィキペディアは割と便利だが、あるところから先はやはり書いてない。

ヨハンナの伝記だが、まあ、適当に検索して引っかかるような紀要論文なんかだと、
数種類の日本語の文献に由来しているように思われる。
高橋健二という人はかなりきちんと仕事した人なのだが、
この人が書いたことを(間違いもそのままに)引用しているだけのものが多すぎる。
その他に若干、巻末の解説みたいな形でヨハンナの伝記を紹介したものがあるようだ。
全部読んでみたいが、これ以上ヨハンナに手間ひまかける必要があるのかという気もする。
1871から1872までに書かれた彼女の処女作品、
つまり今度『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』として出すやつを読めば、
だいたいヨハンナという人がどんな人であったか、
『ハイディ』はどういう意図で書かれたってことの輪郭はわかる。
今まで日本人に紹介されなかったことがずいぶん補完された、はずだ。
さらに緻密に分析して推測で埋めていた部分を確証と置き換えていく作業、
いろんな文献をあたって、
自分の予想が当たって(或いは外れて)確証に変わるのがおもしろくて僕等は研究をやっているわけだ。
でも、これ以上は必ずしも私がやらなくても良い気がする。
日本にはまだまだドイツ文学の研究者はたくさんいる。
しかしまだ研究されてないこと、日本に紹介されてないことが多すぎる。
紹介されているのはだいたいキリスト教かユダヤ教関係、つまり牧師さんか誰かの仕事だ。
彼らはおそろしくマイナーな仕事まで手をつけている。
ただ仕事のやり方や手の付け方にはかなり偏りがある。
アルントの『真のキリスト教』は読んでみたいし、
パウル・ゲルハルトの詩とか、JSバッハのカンタータとか、
みんな読んでみたいが、明らかに私の処理能力を超えている。
だれかが日本語訳しててくれればこんなに苦労しないのに。

ヨハンナ・シュピリの謎の一つ、
1871年から1872年まで「宗教的ジュヴナイル」を書いていた。
1878年頃から児童文学を書くようになる。
その空白の5、6年間、ヨハンナには何があったのか、何故児童文学を書こうと思ったのか。
この時期に「ハンブルクとヘルゴラント島」を舞台にした小説があったらしいが、
1878年に紛失したらしい。
それで出版社も変えたというのだが、その出典が良くわからない。
ただし、1878年には
Am Silser- und am Gardasee (ジルス湖とガルダ湖のほとりで)
Wie Wiseli’s Weg gefunden wird(ヴィーゼリの道はどうやって見つかるか)
といったかなり長編の児童文学を出版しているので、
おそらくだが、「ヘルゴラント」もまたそのようなものだっただろうと想像できる。
「ハイディ」もその路線で書かれたものだが、
「ジルス湖とガルダ湖」や「ヴィーゼリ」に比べるとあまり童話ぽくない。
初期の「宗教的ジュヴナイル」路線と童話路線の折衷みたいなよくわからない構成になっている。

まともかく「フローニ」が処女作なのはまず間違いない。

それで「若い頃」に出てくるクララ、「彼らの誰も忘れない」のザラ、
「故郷でそして異郷で」のマルタは、いずれもヨハンナ自身がモデルになっている。
クララと「私」の関係はヨハンナとマイヤー夫人の関係のようにも見える。
このマイヤー夫人とやりとりした書簡というのも読んでみなくてはならないのだが、
非常におっくうだ。
私はいまだにわからずにいる。ヨハンナは最終的に信仰を受け入れたのかどうか。
クララがヨハンナだとすれば、ヨハンナは結局一人の合理主義的知識人として信仰に疑いを持ち続けたのかもしれない。