京極派の末裔2

話を整理してみると、

鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。
ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。
宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。
正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。
異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。
ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、
二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、
つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、
二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。
二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、
冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。
その傾向は、
常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。
つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、
思いついたままを歌にしてみる。
ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、
その両方を楽しんでいた。
後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。
ある意味そうかもしれない。
宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。

そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。
松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。
たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。
そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、
正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、
堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。
彼は逃れようとした。
しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、
彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、
江戸より昔ではなく、
江戸初期に起きたことなのである。
江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

> 東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、
そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。
頓阿の歌論は宗祇に負けず劣らずひどい。
そして彼らがよってたかって小倉色紙なるものを偽造したのだ。

> 幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。

> ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、
後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、
宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。
この見立てはよい。

> 後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。
しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、
金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。
逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。
私にはそうは思えない。
なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。
しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、
彼らから京極為兼が生まれてきたのである。
また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。
九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。
そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。
為家は確かに生まれながらの「正風」である。
題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。
しかし定家はかならずしもそうではない。
為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。
定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

> 為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、
やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。
たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。
こういうものを宣長は完全に無視している。

京極派の末裔

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。
北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。
歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。
松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。
そうではなかったのだ。
為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。
それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。
為兼によって京極家は途絶えたが、
しばらく分家の冷泉家に伝わった。
例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。
為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。
了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。
正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。
心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。
この頃から連歌が流行しだす。
源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。
金葉集の頃だ。
しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、
長いものを作るようになった。
東常縁の弟子が宗祇。
宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。
そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。
保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、
反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。
たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、
二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、
京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。
しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。
小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。
我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。
宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。
これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。
幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。
今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。
そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。
しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。
理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。
しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、
のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、
或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。
勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。
そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、
国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。
そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、
その分岐点は明らかに定家だったのである。

> 冬さらば 人は知るべし 春来むと 我は何をか 知り得べかるらむ

> 鶴亀の 齢は持たで いかにして ちとせの後に 名をや残さむ

> いかにして 人に知られむ しろかねも 黄金も玉も 我にあらなくに

> うつせみの 我が身はまだき 酔ひにけり わづかばかりの 金は惜しめど

> 春や来む ゆふべもさまで 寒からず うれしくもなし いそぢ過ぐれば

> 金は惜し 命だに惜し なにもかも されどとりわけ 名こそ惜しけれ

> 何をかは なして残さむ ななそぢや やそぢばかりの よはひのうちに

> ももとせの 半ばを過ぎて 知りも得ず 我はなべての 聖ならねば

> 夢のまに 時は過ぎにき きのふけふ 生まれ出でしと 思ひしものを

> あらざらむ のちの世までは たのまじよ されどこの世の 頼み難さは

> わすらるる みをばおもはず わすられぬ 身にしならずば 死ねど死なれず

> ちとせへて たれかはわれを おぼゆらむ いのちはかろし 名は残さまし

> 春こむと 春まつほどの 夜半にさへ あしたも知れぬ 我が身なるかな

> 若かりし 日には力も金も無し 老いては夢も あくがれも無し

> かへらばや 守るもの無き 若き日に 失ふものも 無かりし頃に

> 残りても むなしきものは いたづらに 老いぬるのちの よはひなりけり

柿園

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

> うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、
私にはいかにもあざとく見える。

> 心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。
こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、
景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。
江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。
歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

> 夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

> 棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

> 山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。
加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、
やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。
つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、
宣長や大平とはまるで歌風が違う。

『宣長さん』3

p. 45

> 神童にしてはならない。宣長さんが神様になってしまうとき、学問は、とまる。少なくとも伊勢の青少年の可能性は摘みとられる。

これも面白い言及である。
著者が伊勢の高校国語教師であるから、その視点から宣長はそういうふうに見るべきだということだ。

p. 162

> だいたい宣長さんの学問の発想には独創性は少ない、とわたしは見ている。

これも非常に大胆な発言だ。今まで誰も言わなかったことである、という意味で「独創」的でもある。
確かにさまざまな古典を当たって新しい知見を提起するというものが研究であるとするならば、
宣長はしかしたとえば「竜田川」は奈良の地名ではなくて、山崎の水無瀬川のことである、などと言った非常に独創的な指摘がある。
ただそれは丹念に古典を調べて総合した結果たどりついた事実というものであり、
「学問の発想」というものではないのかもしれない。
いわばスーパーコンピューターで総当たりの統計処理を行って得られる結果、のようなものである。
宣長はスーパーコンピューターであって学者ではない、という言い方もできなくはない。同じことは契沖にも言えるかもしれない。
宣長が導き出した結果はみんなにとって有り難く便利なものだった。

確かに宣長の場合には、あらかじめ何かの直感によってこうであろうという仮説を立てて、
それをじっくりと調査・証明しようというような学問ではない。
いろんな本をやたらと乱読してメモしていたらたまたまある事実に気付いた、というような研究の仕方である。
さもなくば、少年の頃から変わらない信念とか執着があるだけで、
それは結局研究とか学問というような形で昇華されることはなかった、と言えるかもしれない。