読者

思うに、通りすがりの読者も読者のうちである。
読み間違いする読者も読者のうちである。

あなたは誤読してますと指摘してはならない。
誤読もまた読者の権利なのだから。
そして誤読されないような文章を書こうと努力しても無駄だ。
大いなる徒労だ。
誤読されない文章が書きたければコンピュータ言語で書くしかない。
人間は誤読が大好きなのだ。
著者は読者が誤読することまで責任を負わなくてよい。
文章を書くところまでが著者の責任だ。

松岡正剛というひとが何者かは知らないが彼もしばしばはなはだしく誤読している。
白洲正子も。丸谷才一も。
読書体験というものはその大半は誤読で成立していると思えるようになってきた。

誤読を容認し、多くの人の目にふれるようにするのが大事だ。
だから、あなたが読もうとしている私の本はあなたが読みたい本ではないかもしれませんなどと指摘する必要はない。
大きなおせっかいだ。
自分から自分の本を読まれる機会をそぐようなことをしてはならないと思った。

比較対象にするのもおこがましいが、私は本居宣長と立場が似ていると思う。
もし宣長を誤読する人を宣長の読者ではないとすると、宣長の読者はほとんどいなくなってしまう。
もちろん宣長の理解者がいないわけではない。
しかしその思想の根本のところは理解されているとはいいがたい。
宣長は、世間の人はこう考えているが実際はそうではないよ、ということを言う人である。
しかし世間の人は宣長がいくら一生懸命そう主張していても、そうは読んでくれない。
自分に理解しやすい良いように解釈して読んでしまう。

平田篤胤や賀茂真淵などの場合誤読されるような心配はあまりない。
というのは彼らはある意味誰でも思いつくようなことを書くひとだからだ。
誰も思いつかないことだからこそ書こう、
というスタンスだと誤読は増える。

皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、
明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、
この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。
記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。
とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。
柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。
つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、
他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。
ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。
例えば岩倉具視の意見とは思えない。
武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。
明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。
つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。
伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、
西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。
外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。
西郷隆盛は朝敵そのものであった。
実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、
京都を奪い返し、北朝を建てたのである。
この頃京都は東京に対して西京といったが、
東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。
伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。
明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、
皇統が分裂していた可能性は高いのである。
その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、
明治政府としてはたいへん困ることになる。
明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、
伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。
伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。
しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。

宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。
しかし伊勢神宮では檀家という。
この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。
『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。
寺は一つの村や町に複数あることがあって、
徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。
いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、
神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。
神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。
神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。
はたしてそうなのか。
明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。
冠婚葬祭ができない。これは困る。
その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。
明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。
今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、
宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。
漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

> ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、
和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。
まだ契沖には出会っていない。
和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。
和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。
それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。
しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。
和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、
そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、
山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。
墓を二つ作った。
それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。
神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。

「既読KENP」以外の指標

アマゾンはキンドル本がどのように読まれているかという膨大な、生のデータを持っているわけである。
その一部を著者は「既読KENP」という形で見せてもらえるのだが、
アマゾンはもっと詳細にこの「読まれ方」のデータを分析しているはずだ。

ある本は、200ページあっても3分くらいで読み飛ばされているかもしれない。
それらのキンドル本にはある種の特徴があるだろう。
みなの関心は高いが、読んでみたらつまらない写真集、つまらないコミック、
だったのではないか。
それは読者にも容易に推測できることだった。
ただ単に既読KENPを稼ぐ本を作ることは簡単だ。
エロ、エロ、エロ。猫、猫、猫。デジカメがあれば誰でも撮れるようなくだらない写真の羅列。
改行、空行、改行、空行。
「え。」とか「あ。」とかばかりの短い行の羅列。
或いは、単なる素人に書かせた短編集、マンガ雑誌のたぐい。

こうしたことは当然アマゾンにはバレバレだし、それはレビューにもすぐに現れる。

「既読KENP」以外の指標をアマゾンは持っている。
最小の労力で最大の「既読KENP」を獲得するような小手先の技が流行ることをアマゾンが許容するはずがない。
しかも写真集や漫画はキンドル本のデータ量も大きく、アマゾンにしてみると余計な負担になる。

もちろんほとんど読まれない本に関していちいちアマゾンが問題視することはあるまい。
ものすごく売れているが実質的には読まれていない、
それを理由にアマゾンが Kindle Unlimited から除外するのは当然だろう。
そのことをアマゾンはある程度出版社に伝えたに違いない。
しかし出版社は、著書を Kindle Unlimited に加える旨、作家やカメラマン、グラビアの女優らに許可を得ているはずで、
アマゾンから、君の本はつまらないから Kindle Unlimited から除外するね、と言われた、
ということをそのまま伝えると、そりゃ激怒するわね。
だから一応出版社は拳を振り上げてみせなきゃならん、著者の側に立って著者を守るふりをしなきゃならんのだが、
つまらないってことは、編集者や、著者本人を含めて誰にもわかってることであり、
アマゾンがデータを出してくれば誰もが納得するだろう。

そもそも何を Unlimited にするかってことはアマゾンが勝手に決めて良いことになってるはずだし、
一旦 Unlimited にしてそれを外したからといって怒ってもしょうがないことじゃないか。

そんでいろんなことを勘案してみるに、アマゾンは外圧であり黒船であるから、
読者の反発を煽ってアマゾンに譲歩させようという、あまり賢くない戦術に出ているのだろうと考えられるが、
正当な理由があるアマゾンがいずれ勝つだろうと思う。
いろんなメディア、特に今回は、アフィリエイトブログやニコ動辺りがこすく煽っているのだが、
いろんな憶測や伝聞をそれらしくまとめているだけで事実ではあるまい。

北大の件

国立大学というものはどこでも昔から近隣住民と仲良く付き合っていこうと努力してきたわけで、
今回急にこの話が出たのは、札幌でも都市部に共働き夫婦が増えて、保育園や幼稚園の需要が増えて、
新たな認可があいついで、
たまたま近所に北大のキャンパスがあったからそこへ毎日のように遊ばせにいくようになったことに起因すると思われる。

であればこれは明らかに行政の問題であって北大の責任ではない。

保育園や幼稚園は児童らを引率してしかるべき公園に連れて行って遊ばせなくてはならない。
そのために地方自治体は税金を投入しているのだから。
そういう一部の団体のために北大も一般の近隣住民を迷惑を蒙っているのである。

ふつうは近所の住民が花見したりぎんなん拾いに来るくらいで国立大学が目くじらを立てることはない。

そして保育園や幼稚園からの苦情をことさらとりあげて北大のせいにしている新聞報道は、
何か意図的なミスリーディングを企んでいると言わざるを得ないだろう。