亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for 4月, 2018

夜明け前

04.05.2018 · Posted in 雑感

島崎藤村『夜明け前』に出てくる主人公の青山半蔵が本居宣長がどうとか平田篤胤がどうとか言っているってことを今月号の中央公論読んで知ったので、『夜明け前』を読んでみようと思う。本居宣長の連載で平田篤胤までたどりつくにはあと何年かかるかわからん(隔月発行でなく月刊になって毎月書かせてもらえればもすこし早くなるかも)。平田篤胤の後でないと『夜明け前』は書けない。その後に水戸斉昭とかも書くと良いかも知れない。

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04.05.2018 · Posted in 読書

カズオ・イシグロの作品はたいていの場合、主人公が過去を追想するモノローグという形で進展していく。記憶の断片が拾い上げられる順番は、時系列とか、重要さの順番とか、特に決まってなく、ほとんどランダムな順番に取り上げられる。 もちろん小説なので、読者に理解できない順番にはなっていない。一応最初から順番に読んでいけば理解できるのだが、わりといらいらさせられる。そうではなく、途中から読み始めてはなおさらわからないから、しかたなく書かれた順番に読むしかない。 確かに他の作家にはあまりみられない独特のスタイルではあると思う。

カズオ・イシグロ作品というのはつまりモザイク画のようなもので、モノローグが延々と続く過程でタイルが一枚ずつ、ほとんどランダムに貼られていき、最後に全体が見えて落ちがつくというものだ。彼の作品を続けて読む人というのはつまりこのスタイルが気に入って読むのだろうが、私の場合、もうすでに飽きてきている。

「日の名残り」をDVDで見ているが、たぶんこんな具合に延々と老執事の話が続くのだろうと思うと、見る気が失せる。要するにハイディに出てくるセバスチャンとロッテンマイヤー女史がどうしたこうしたという話であって、こういう映像を好きな人はいるかもしれんが、正直私には興味がもてない。

ざっとネットを調べてみると、カズオ・イシグロの妻はごく普通の女性のようだ。 彼が若くして出世していく過程で、サラ・ヘミングスのような女に絡まれるようになり、そういう女性たちをモデルにしたのだろうと思われる。

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夜想曲集

04.04.2018 · Posted in 読書

「老歌手」 「降っても晴れても」 「モールバンヒルズ」 「夜想曲」 「チェリスト」。

「老歌手」に出てくるリンディ・ガードナーは「夜想曲」にも出てくるので、この二つは続き物とみてよい。 まだリンディと、「チェリスト」に出てくるエロイーズ・マコーニックのキャラは微妙にかぶっており、 エロイーズは謎めいているがリンディはわかりやすいキャラなので、エロイーズを理解するたすけになるかもしれない。 で、明らかに、『わたしたちが孤児だったころ』に出てくるサラ・ヘミングスとリンディは同じキャラであり、 「降っても晴れても」に出てくるエミリも似たような性格だから、 サラ、リンディ、エロイーズ、エミリに共通するヒロインのプロトタイプというものが、カズオ・イシグロの中にあるのはほぼ間違いないと思う。 つまり、出世欲が強くて、有名人と結婚することに異様なこだわりを持つ女。 『わたしを離さないで』に出てくるルースもわりとそういうタイプ。 で、こういう女を主役にするってのは、 カズオ・イシグロの原体験に基づいている、つまり、彼が昔好きだった実在の女性を反映しているのだと仮定できなくもないのだが、 実はイギリスやアメリカの小説ではありがちなことであり、そういうセレブに憧れるアサハカな女というのはざらにいるのに違いなく、またあちらではそういう女を描けば小説は売れるものなのかもしれず、カズオ・イシグロの発明というわけではないのかもしれない。 日本と違ってむこうはもっとウーマンリブとか女性の人権とか女性の社会進出というものが盛んなのに違いなく、 日本みたいに一途で控えめな女というのはむしろ社会的にはタブーで、 そんな女性を描こうとすると時代錯誤が女性差別みたいに見られてしまうのかもしれない。 実際、結婚して離婚する夫婦が出てくるハリウッド映画はいくらでもある。離婚ということがネタになりやすいのだろう。しかし日本ではいまだに、シンデレラストーリーみたいに、結婚してめでたしめでたしみたいな話か、さもなくばボーイミーツガールみたいな話しか受けない。中年もしくは老夫婦が主役で夫婦生活がうまくいってないとか離婚するとかそんな話、日本ではまず受けない。あほみたいに、いつもいつも、若い作家が書いた、いまどきの若者に受けそうな作品ばかりが取り上げられる。いや、日本でも山田詠美あたりがこつこつ書いてるのかもしれんが、話題にはならんわな。

「老歌手」はまあ普通に面白くちゃんとオチもあるので、読んでみると良い。 「チェリスト」は、主人公は単に観察者として出てくるだけで、自称チェリストの大家エロイーズと、ちゃんと音楽家としての教育を受けたティボールが意気投合しちゃうって話なんだけど、カズオ・イシグロはネタばらしせずにこの小説を終わらせてしまう。 ティボールはエロイーズの教授を受けてより優れた演奏家になったのか、それとも才能を潰されてしまったのか。 エロイーズは、チェロを演奏することはできないが優れた指導家であったのか。 どちらとも解釈できるように書かれている。 でまあ、もとミュージシャン志望であったカズオ・イシグロとしては、優れた音楽家なんてものは結局誰にもわからん。 プロデュースする人の力次第かもしれない、本人の営業の力かもしれない、運とか人間関係によるものかもしれんと言いたいわけで、 『わたしたちが孤児だったころ』もある意味そういうことが言いたかったと言えなくもない。 『わたしを離さないで』で臓器提供猶予のために一生懸命絵を描くが無駄骨ですげーがっかりした、みたいな話も同じかもしれない。

思うに、バッドエンドのほうに落としたいときには、カズオ・イシグロは最後でネタばらしして、読者をぎゃふんと言わせる。 ハッピーエンドにもっていきたいときには、わざと結末を書かずに、バッドエンドもあり得るみたいな余韻を残したがる、のではなかろうか。

「モールバンヒルズ」も、何が言いたいか不明だが、ミュージシャンが才能を認められる確実な方法はなく、才能があるかないかを確かめる方法もないってことがいいたいだけなのかもしれない。

「夜想曲」は長いだけのドタバタコメディで一番長いんだが、一番どうでも良い感じだった。

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わたしを離さないで

04.04.2018 · Posted in 読書

『わたしたちが孤児だったころ』は、イギリスの社交界や、上海や、探偵、日中戦争などの割と食いつきやすいネタがちりばめられていて、 また独特の間の引っ張り方で、それなりに読み進められたのだが、 この『わたしを離さないで』は、そういう飾りや仕掛けを全部取っ払ってしまっていて、 だが俺のファンなら最後までついてこれるはずだ、みたいなマゾヒスティックな文章で、 ある程度固定ファンをつかんだあとにしか書き得ない実験作品みたいなもんで、 極めて読むのが苦痛だった。 それであらすじはあちこちのサイトを見てもうわかっていて、既に映画化されていたからそのDVDを借りてきて見て、だいたいのストーリーは把握した。 映画だけではわかりにくかったところは最後のマダムと先生の話にまとめてネタばらしされている。 この仕掛けも、『わたしたちが孤児だったころ』でフィリップ伯父さんがまとめてネタばらしするのとよく似ているといえる。

それでまあ、カズオ・イシグロが必ずしも科学に詳しくないだろうってことと、今みたいに IPS細胞がどうしたこうしたなんて騒がれるよりもずいぶん前に書かれたせいで、SFとしては出来が良いほうとは言えないのは仕方ないと思う。 1950年代、まだ科学や医学が十分に発達してなかったころは、ロボトミー手術とか、強制不妊手術などというものが普通に行われていたわけだ。そんな時代にクローン人間を作ることで癌が完治し平均寿命が100才超えるなんていう医療技術が確立されていたとしたら、クローン人間の人格なんてものは無視されて、どんどん技術だけが先走りしていた可能性はある。もっと早い、優生学や人種差別が当たり前だった時代にシフトさせれば、もっとあり得る話だ。だから、カズオ・イシグロの妄想は必ずしも何も根拠がないわけではない。 というか、この話はそもそも、大英帝国時代、当たり前に人種差別が行われていたころのヒューマニズムや人権運動をモデルにしたものだと思う。 『わたしたちが孤児だったころ』に描かれている大英帝国時代にあった、反アヘン運動というものも、やはりおなじような動機で取り上げたものだろう。一方で人種差別し、搾取しながら、他方で人道を説くことの欺瞞をテーマに取り上げる、というのはいかにもイギリス的だ。

それで、最初の頃はクローン人間はひどい育てられ方をしていたので、クローン人間をもう少し人道的に育てようという運動が起きて、クローン人間にも魂があることを証明しようとして、絵を描かせたりした(これは大英帝国が植民地で現地の「野蛮人」に施した啓蒙活動に似たものかしれない)。しかし一方で、現代人よりも優秀な人間を人工的に作り出せるという研究が発覚して(モーニングデール・スキャンダル)、クローン人間の人権運動というものもとばっちりを受けて頓挫してしまう。

植民地の土人たちを人道的に扱おうという運動は頓挫する。より理想主義者が現れたり、反動的な人たちや、現実主義者も現れたりする。『わたしたちが孤児だったころ』はまさしくそういう観点で書かれており、それをクローン人間の人権に置き換えればそのままそっくり『わたしを離さないで』ができあがるしくみになっている、といえる。まさにイギリスである。

でまあ、私も『妻が僕を選んだ理由』みたいなものを書いたりして、つまりこれは、科学技術が今後発達していくと、生身の人間というものはどんどん役立たずになり、サイボーグとか人工知能とかが比較優位になっていき、現生人類よりもすぐれた新しい種が作られる可能性もあり(自然に進化することはあり得ないが)、そうした場合に古い種、つまり現代人は、原種の遺伝子を確保しておくために「ジオコミューン」のような原始共同体(つまり、ホモ・サピエンスが種分化によって生まれた当初と近い環境)に隔離保護される時代がくるんじゃないかとかそんな話なんだけど、Yuval Noah Harai の Sapiens とか Homo Deus も同じテーマを扱ってるんだけど、『わたしを離さないで』もまあだいたい似たような小説であると考えて良いと思う。

でまあ、SFの宿命というべきか、2005年当時ならばまあそれなりの作品であったかもしれないが、2018年の今これを、カズオ・イシグロの代表作だとか、読んでおくべき作品だとかいうのは違うと思う。どちらかと言えば失敗作になると思う。彼はそもそもこんなものを書くべきではなかった。「who, in novels of great emotional force, has uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world」というノーベル文学賞の受賞理由に一番ふさわしい作品のように一見みえるが、そういう作品とは言えないと思う。

『わたしたちが孤児だったころ』を読んだあとならば、『わたしを離さないで』でこういうゲスいオチをもってくるというのは、十分予測可能だ。『わたしを離さないで』が面白くてわかりやすいなんてちっとも思わない。

『わたしを離さないで』が映画化され、日本でもテレビドラマ化されたのは、これがほかの作品より面白かったからというよりは、制作費が安くすむからであったろうと思う。 『わたしたちが孤児だったころ』のほうがずっと派手で映像にすれば面白くなるはずだが、そのためには1930年代のロンドン社交界とか上海などのセットが必要になり、CGもばんばん使わなきゃならない。 『わたしを離さないで』なら現代のイギリスに適当なロケ地があれば作れてしまう。 イギリスであることにすらこだわらなければ、ちょっとした学校と病院さえあればドラマ化できてしまう。まあ単にそれだけの意味だわね。

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わたしたちが孤児だったころ

04.02.2018 · Posted in 読書

カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』をやっと、途中斜め読みしたが、一応読み終えた。

最初は、日中戦争のことが書きたいのかなと思った。アヘン戦争以来の、イギリスによる中国支配のこととか、日本との戦争のことが書きたいのかなと。 でも何か主要なテーマが一つあってそのことを中心にいろんなエピソードが絡み合っているのかとおもったが、 そうともいえない。 中心的な主題を持つことを拒絶しているような感じがある。これがポストモダンとかポスト構造主義というものだろうか? さまざまなエピソードがただたんに相互に絡まり合って長編小説という体裁を作り出している。 だから、イシグロが構築した世界の中をだらだらと散歩させられているような気分になり、そういう読書体験をしたい人にはちょうどよいのだろうし、そういう読者が英語圏には、あるいはイギリスという国には、ある一定数いるのだろうと思われるし、そういう人むけに書かれたものなのだろうと、推測する。

面白いと言えば面白い。そう、わざと、最後まで、はしょらず読み進めさせるのに必要な最低限の面白さを小出しにするようにして、話は進んでいく。 筆力を持った作家にしかできないじらしのテクニック、と言えば言えるだろう。 意外なオチというものは用意してあるのだが、いわゆるミステリー小説へのアンチテーゼのような形で、読者の目の前に持ち上げておいてたたき落としているような不愉快な感じすらある。 クリストファーとサラの恋愛物かと思わせておいて全然そうはならない。 たとえばロンドンの二階建てバスに二人で乗る話。それはただ記憶の断片として配置してあるだけだ。石庭の石のように。 クリストファーとアキラの友情ものかと思わせておいてそうもならない。 アキラの家の使用人が人間や動物の手首から蜘蛛を作っているというアキラの思い込み。なるほど、アキラという子供の描写にはちょうどよいのかもしれないが、本筋とは何の関係もない。 読者がこういうものを読みたいと思っている、その期待をすべて裏切っているところがおもしろがられているのだろうか。 すでに巨匠となった作者のちょっとしたいたずらのようなものだろうか。 これを読んでなんだかはぐらかされた気分になる人は多いのではないか。だがそうは思わず純粋に楽しめる人もいるのだろう。

思うに、今の時代は、これはラノベ、これはミステリー、これはホラー、これは時代小説、などと、ジャンルが細分化されていて、それぞれにファンがいて、他のジャンルの小説は普通は読まない。 そしてそのレビューというのも、ミステリーとしてよくできてるとかミステリーのていをなしてないとか、ミステリーとホラーがまぜこぜになっているとか、そういうものが多い。 ラノベだとこれは異世界転生物とハーレムものを合わせたものですね、なんて言っている。そういう読み方して楽しいのか?と思う。 小説をそういうふうに消費するのはつまらんからジャンルをとっぱらった自由な新しい小説を読んでみたいとなると、カズオ・イシグロのようなものになるのだろう。 しかし私には、ジャンルを否定しただけで、なんだか何でもない、小説ですらない何かを読まされているような気がしてくる。 私の場合、やはりジャンルにはこだわりたくないのだ。読者に自分の小説をカテゴライズされるのはいやだ。しかし小説を書くのであればきっちりテーマがあってちゃんと起承転結があるものを書きたい。それで面白いと思われたいのだ。

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04.02.2018 · Posted in 雑感

大野晋『日本語の教室』の中で、夏目漱石が太宰春台の『独語』を子供の頃読んで面白いと思った。 一体に漢学者の片仮名ものは、きちきち迫ってきて面白い。などと書かれていて、探してみると、 吉川弘文館の『日本随筆大成』1-17に収録されているので、読んでみた。

本居宣長の連載を始めて、太宰春台のことも少し調べていたところだが、 彼は荻生徂徠の門弟で、漢学者なわけだが、父母は和歌が好きで、子供の頃和歌を学んだが、 和歌は所詮公家には勝てぬ、漢詩ならば公家を弟子にすることもできると思って、漢学を志したのだそうだ。 和歌についてもあれこれ書いていて、太宰春台が歌論なんて書いているのは意外だったので面白く読んだ。 特に伊勢物語とか在原業平を誉めているのが、へーという印象だった。 春台と宣長の考え方は和歌に関していえばほぼ一致していて、ますます意外だった。

昔『古今和歌集の真相』というものを書いて、古今和歌集を調べていたら、どうしても伊勢物語も調べねばならなくなって、 伊勢物語の解釈をカクヨムで書き始めたのだが、今は途中で放り出してある。 伊勢物語については、荷田春満が書いた『伊勢物語童子問』が面白いと思っていて、 読むだけでなくその解説も書きたいくらいだが、 どうも書きたいことがたくさんありすぎて困るくらいだ。 加藤千蔭も五十過ぎで隠居して学業に専念しているので私もそうしたいのだが、ますます仕事が忙しくなってきて困っている。

ともかくも夏目漱石は荻生徂徠あたりが好きで、頼山陽あたりまで時代が下ると嫌いらしい。 で、大野晋によれば、漱石は『明暗』を書くとき午前中に人間の心のどろどろしたのを執筆して午後は綺麗に気持ちを洗い清めるために漢詩を作ったというのである。 そういうふうにいちいち気持ちをリセットしなきゃ気がすまなかったらしい。 そう知ってみて漱石の漢詩をみると確かに彼の漢詩というのはやけに生真面目で、人情味にかけるように思えてくる。

陸奥宗光の父宗広などは、日本人が漢詩など作っても結局平仄や押韻などネイティブスピーカーじゃないとわからん、それに比べれば和歌は日本人であるからにはより深いところまで理解がおよぶからと和歌をやった人だ。ひとそれぞれともいえるが、春台の時代は公家の力がまだ強かったが、だんだんに地下の力が強まって、紀州だと宣長の養子の大平が和歌を流行らせたから、陸奥宗広あたりだと公家に気遣うことなしに和歌も詠めたのだと思う。

そろそろ明治生まれの人も死に絶えて、江戸時代の雰囲気を知っている人はいなくなり、儒学者や国学者の末裔も絶えて、昔は岩波古典体系くらいのものは作れたのだろうが、いまさらアレに匹敵するものを書けるほどの学者が棲息しているとは思えない。 ところがまだまだ活字になってない江戸時代の古典は多くて、はなはだ中途半端な状態であるのに、たいていのひとはもう古典研究というのはやりつくされているんだと思い込んでいる。 てこ入れするには、人々の意識を変えなきゃならんのだが、どうすりゃいいんだろうか。

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