古文漢文

現代日本では古文漢文は相当に衰えてしまっており、受験産業以外にこの分野を支える社会的需要がない、という状況だ。
しかし、あまりにも長い間注目されなかったせいかもしれないが、調べれば調べるほど、
最新の研究による定説の刷新が待たれている分野であると、考えざるをえない。

思うに、江戸時代の漢詩などを読むに、必ずしも、唐宋やそれ以前の古典の用例ではなくて、
むしろ、現代中国語で解釈した方がわかりよいものが、だいぶ含まれていることを感じる。
そりゃそうで、江戸時代といえど、清や朝鮮との交流は、それなりに活発に行われていたのだ。
漢学者や儒学者らは、訓詁学や古文辞学や詩文などばかりもてあそんでいたのではなく、
外交官として、「生の中国語」を駆使して海外事情を学んでいた、はずだ。

詩文がもてあそばれているように思われるのは単に詩文のほうが教材としておもしろみがあったからだろう。
わざわざつまらない勉強をするよりは面白く学んだ方が身につくに決まっている。
それは今の学問となんら変わらない。
詩文や古代の聖賢の話ばかりに没入してしまうのは、儒官としては本末転倒だっただろう。
民間の儒学者にしても、できるだけたくさん弟子は欲しいから、できるだけおもしろおかしい授業をしたのに違いない。
江戸時代は浮き世離れしてたから古文漢文などを学んでいた、はずがない。
実際旗本や与力らの仕事など調べてみると彼らの定員は少なく仕事は多い。
徴税や取締、警備、訴訟、その他さまざまな行政、江戸時代のお役人だからのんびりしてたなどという観念はまったく間違っている。

江戸時代を通じて関東の沼沢地のほとんどは干拓されてしまった。
これらの治水工事にも膨大な労力を要しただろう。
桑や茶などの換金作物が栽培されるようになり、これらが維新時の産業革命の立ち上げに大きく寄与した。
日本には多くはなかったが資本の原始蓄積があったし、高度に発達した職能組織や都市生活環境、貨幣経済もすでに用意されていた。
それを用意したのが徳川三百年の太平だ。
学問も大いに発展した。

現代日本だってもう七十年近く戦争をせず太平を謳歌しているのだ。
もし江戸時代を平和と停滞の期間とするなら戦後日本だって同じことだ。
たまたま学園紛争の真っ最中に書かれた文章を読むと、今は江戸時代と違って、
時代が極めて急速に変化していて、江戸時代の某らのようにゆったりとした時間の中で学問のできる時代ではない、
などと書いているが、それは大嘘だ。
学園紛争など社会変化全体の中でどれほどのものだというのだ。
江戸時代にだってそのくらいの変革は日常茶飯事的に起きていただろう。
浮き世離れしているのは戦後の学者のほうだろう。

江戸時代というのはとかく水戸黄門シリーズのようにおんなじことを飽きもせず三百年間繰り返してきたのだ、
永遠の過去だと思われがちだが、それは極めてよろしくない見方だ。
だが、古典文学の解釈というのはとかくそうなりがちで、
古典の用例によって古典を解釈しようとする。
聖賢を学ぶものもやはり聖賢であろうと思いたがる。
実際にはいつの時代にも聖賢などというものはいなかった。
酒は飲むし吉原で遊びもする。
金も権力もほしがる。
そういうふうにみなければ古文漢文などわかるはずがない。

江戸時代には共通語がなかったからいきおい古文が共通語というか書き言葉代わりになった。
しかし、新しい思想は新しい単語で表されたのであって、それは、比較的保守的な詩文にも、
徐々に浸透していったはずだ。
古いものがいつまでも古いままでいるのではない。
たとえば明治天皇の御製など今読むと古めかしいが当時としては非常に斬新なものだったのだろう。

むろん、学問とは道徳教育のため、という側面もあっただろう。
しかし、人間道徳ばかりじゃない。それは今も昔も同じはずだ。

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