西洋紀聞

新井白石「西洋紀聞」は大して面白くなかった。
最初面白いかと思ったが、イタリア人(ローマ教皇領の人らしいから当時はローマ人、か)と新井白石が、
日本人のオランダ語の通訳を通して意思疎通をしているというところからして、まあむちゃだな。
しかも、オランダとローマは日本で言えば長崎と陸奥くらいだからなんとかこうとか通じるとか、まあ、
無茶だ罠。
オランダ人とドイツ人でも書き言葉くらいでしか通じないだろうし、
イタリア語とオランダ語では、よほど教養がある人じゃないと通じないだろうし
(両方ともラテン語でしゃべれるとかならわからんでもないが)、
しかも片方はオランダ語を学んだ日本人というにすぎない。

たぶん新井白石的には本人から聞いたというよりはいろいろ知識を日本人からも中国・朝鮮人からも聞いて補完したのだろうと思う。

「折りたく柴の記」の方は最初の方は自分の親や祖先の話ばかりで死ぬほどつまんなかったが、後半はやや面白いように思えた。
ゆっくりと、辛抱強く読むことは可能かも知れん。
「藩翰譜」もちらっとみたが、これは電話帳みたいなもんだから、何か目的を持って読まないと読めないだろう。
こういうのを読むくらいならば、「徳川実記」でも読んだほうがまだ面白いのではなかろうか。
「三河物語」を面白く読める人なら素質はあるかもしれん。

そういう意味では新井白石の書いたものの中では今も入手が容易な岩波文庫の「読史余論」が一番面白いと思われる。
が、これを面白いと思える人というのは頼山陽の「日本外史」と「日本政記」を読んで、
たとえば後三条天皇について新井白石はどう考えているかとかそれについて頼山陽はどう評価しているかとか、
そんなことに興味を持つひとくらいだろうなと思う。
「日本外史」はそれなりに面白い読み物(軍記物に近い)だが、「日本政記」と「読史余論」は純粋な「史論」
なので、それも江戸時代の儒学者が書いた史論だから、ま、人によるだろうな。

切支丹屋敷に幽閉され新井白石が吟味したイタリア人の名は、ヨワン・バッテイスタ・シローテ (ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)と言い、ローマン、パライルモ人とあるが、
パライルモというのはパレルモのことのようだ。
パレルモはローマンに隷する地名、とあるが、当時のパレルモはシチリア王国の一部のはずであり、
シチリア王はスペイン・ハプスブルク家だったから、スペイン領だったはずだが、
スペイン・ハプスブルク家はまもなく断絶し継承戦争の結果スペイン・ブルボン家になるが、
シチリアはサヴォア家が領有することになった。ややこしい。
シローテが日本で捕まったときはスペイン継承戦争の真っ最中であり、シチリアの帰属ははっきりしてない。
少なくともローマ教皇領ではない。
その後サヴォア家はシチリアとサルディーニャをスペイン・ブルボン家と交換する。
以来、シチリアは両シチリア王国が滅びるまでスペイン・ブルボン家の分家が治めることになる。

シチリア王国の公用語はラテン語とシチリア語であり、シチリア語はイタリア語の方言というよりは、
ロマンス系の姉妹言語という位置づけらしい。
イタリア語で「ジョヴァンニ」と言い、ラテン語ではおそらく「ヨハネス」とかで、
シチリア語では「ヨワン (Jovan?)」と言った可能性はあるだろう。
新井白石の聞き違いではあるまい。
「ウォアン」「ギョワン」などとも聞こえると書いてある。
「ギョワン」が一番イタリア語の「ジョヴァンニ」に近いなあ。
パレルモはシチリア語では「パレルム」または「パリエンム」などと言うらしい。

思うに、本人が「ヨワン・シローテ」と名乗っているのだから、彼が現在から見ればイタリア人だからという理由で、
イタリア語で「ジョヴァンニ・シドッチ」と言う名前で呼ぶのはどうかと思う。
当時はそもそもイタリアという国はなかったのだし。
同じことで、シチリア王国の始祖をルッジェーロなどと言うが、彼はもともとノルマン人なのだから、
ノルド語風に、ロジェール、などと呼ぶのが正しいのではないのか。
同じことは、バルドヴィンをフランス語風にボードワンと呼ぶのも同じ。
ヨーロッパの国々がそれぞれの国の呼び名で呼ぶのは間違いではないとして、
日本人がたまたま今のヨーロッパのそれぞれの国の言葉に合わせるのはおかしい。

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