筋違

筋違はスジカイと読むらしい。
中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、
湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、
わからんことだらけだ。
川越素描にも同じ地図を掲載したが、
小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。
SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。
こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。
あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。
しかし、あまり見かけない地図である。


* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。
現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、
もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、
家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。
北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。
この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、
上野へ向かう道である。
浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。
ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。
なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。
特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。
やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。
また、西の丸の辺りもややこしい。
今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。
現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。
今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。
シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。
京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、
次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。
すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、
しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、
そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。
昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。
古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。
中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。
もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。
今東京では新橋は固有名詞のようになっている。
日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、
都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、
この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。
武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。
実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。
国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。
武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、
平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。
そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、
通常の考え方で言えば落ちない。
少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。
案外黒船とも戦えたのではないかと思う。
しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。
あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。
たぶん台場を築き始めて、
考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。
土木技術の発達のたまものだ。
また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。
紫禁城には城壁はあっても濠がない。
たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。
紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


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