親王宣下

以仁王と式子内親王は同母姉弟であって一方が内親王、つまり親王宣下されているのに、
他方はされてない。
ふと疑問に思ってとりあえずwikipedia を読んでみると脚注に詳しい解説がある。

[以仁王:版間の差分](http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B&diff=44589367&oldid=44161962)

> 院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。

2012年10月14日に匿名で書き込まれているのだが、
おそらくNHKの大河ドラマ「平清盛」を見た人(歴史研究者?)がふと気付いて書いてくれたのに違いない(ちなみに私はドラマは見てない)。
なるほどつまり、立太子とか男子の親王宣下というのは、
少なくとも後白河上皇の時代にはなかった(天皇は即位直前に立太子された)、ということか。

また、

> 幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗。永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。

とあるのだが、法親王宣下されてなくても仏弟子となったのであれば、木曾義仲が擁立しようとした北陸宮どうよう、皇位継承権は放棄されたものとみなされて当然だと思う。

実際に還俗し元服し、「以仁」と名乗ったのか、
ほんとに八条院暲子内親王の猶子となったのかも疑おうと思えば疑えるわけで、
以仁王の挙兵時に「令旨」を権威づけるため適当にでっちあげたことかもしれん。
実は法親王宣下すらされず、ずっと僧侶としてほったらかされてただけかもしれん
(勝手に最勝法親王と名乗っていた可能性が高い)。
後白河天皇自体がそもそも天皇の器ではないとほったらかされた人だった。
その内縁の妻の男子なのだから、そんなぞんざいな扱いをうけてもおかしくない。
後白河天皇以外の天皇がどんどん死んでしまい、
いつの間にか以仁王の重要性が高まってしまい、それに頼政が目をつけて、
うまくおだてた、というだけだろう。

> 幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。

このへんの Wikipedia の記述もまったく当てにはならない。
詩歌とやらが一つでも残っていればともかく。
姉の式子内親王は歌がうまかったわけだが。

北陸宮は以仁王の子なのだが、以仁王は29歳で死んだわりにはずいぶん妻と子供がいる。
正式に結婚したのではない。手をつけたらできてしまったのだろう。
そっちのほうが割と気になる。
余計なこと考えぬように女性だけはたくさんあてがわれていたか。

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