明治天皇の和歌の由来

明治天皇御製を一から調べ直しているのだが、
『明治天皇記』を読んでいるといろんなことがわかる。
皇太子時代の明治天皇、つまり、
睦仁親王が和歌を習うように進言したのは冷泉為理、
元治元年正月というから、1865年のことで、
明治天皇は1852年生まれだから、満12歳。
当然父孝明天皇も存命で、睦仁親王の御製

> あけぼのに雁かへりてぞ春の日のこゑを聞くこそのどかなりけれ

これがどうも、確認できる一番最初の歌らしい。
孝明天皇が返して

> 春の日の空あけぼのに雁かへるこゑぞきこゆるのどかにぞなく

為理、

> 梅の花若木は人の知るなればはちすも咲けよ今の春べに

> はじめより花に匂へる花はなし花はつぼみの花になりつつ

とまあこんな感じである。
明治天皇が直接孝明天皇の影響を受けたことは、事実であろう。
孝明天皇はよく「もののふ」の歌を歌ったが、具体的には島津公のことを言っていると思われる。

明治天皇の母は中山慶子、その父、つまり外祖父は中山忠能。
忠能の母は綱子という。
明治天皇記の最初の頃には綱子が明治天皇のことを詠んだ歌がたくさん載っている。
忠能の歌もあるがそんなでもない。

明治天皇の后・一条美子、つまり昭憲皇太后は、妃となった当初から、すでに歌がうまかった。
明治二年の歌会始以来ずっと明治天皇よりまともな歌を残している。
公家の娘で天皇より三歳年上であるから、まあ、当然といえば当然かもしれない。
才女だったと思う。
ともかく初期最も明治天皇が影響を受けた、というか競争心をあおられたのは美子ではなかったか。

初期の歌会始には飯田年平という人がしばしばでてくるが、神官で、しかも本居宣長の子・本居大平の門人だったらしい。
つまり、彼は本居宣長系の歌人だったのだ。
ということは、明治天皇は本居宣長の影響も受けている、国学的神道的な歌はその影響であろうと思われるのだ。

また、明治五年には八田知紀が出てくる。
彼は薩摩武士で桂園派、つまり香川景樹の流れであると同時に、堂々とした武士の歌を詠む。
おそらくは彼に、明治天皇は、武家の歌というものを習ったのだろうと思う。
桂園派というのはもともと江戸後期の京都の町人に流行った歌風だが、たまたま幕末に地方から血気盛んな若者が集まって、
志士らしい歌の素地となり、維新によって全国、特に東京に散らばっていったのだ。

福羽美静という人はもとは武士だが孝明天皇の近習だったらしい。よくわからん。

明治10年になるとまず正月歌会始めに税所敦子が出てくる。
たぶん高崎正風も同じころに出仕しているはずだが、おそら八田知紀が高齢のために、後任として自分の門人の税所敦子と高崎正風を推薦したのであろう。
明治天皇や昭憲皇太后の歌をせっせと記録したのはたぶん税所敦子だろうと思われる。
高崎正風はそんなにまめな性格ではないだろう。

こうしてみると、三条西季知はたしかに御歌掛ではあったかもしれないが、
さほど重要な歌人ではなくて、明治天皇の歌道指南という立場からはかなり遠かったと言わざるを得ない。
高崎正風という人も直接明治天皇に影響を与えたとは考えにくい。
明治天皇は、まず、昭憲皇太后から正統な堂上和歌である二条派を学んだであろう。
飯田年平から、国学的な和歌を学んだであろう。
八田知紀から、維新の志士らが詠むような、江戸時代の武士あるいは町人的な歌を学んだだろう。
たぶんそれくらいだ。
それらが複合して、あのような歌を詠むようになった、と考えられる。

明治天皇は明治20年代の一時期、二条派的な静かな歌をたくさん詠んだ。
明治30年代、40年代には、明治天皇特有の歌を詠むようになったので、
我々は、公家的な歌から次第に明治的な歌を詠むようになったのではなかろうかと誤解しがちだが、
それでは明治10年代に詠まれた歌をうまく説明できない。
明治天皇は誰かを師範にするというのでなしに、若いころからすでに独自の歌境に達していたと思う。

で、明治天皇がいつ頃から乗馬を好むようになったかだが、
よくわからんが、明治10年西南戦争から東京に帰った頃から岩倉具視が馬に乗るのは危ないからやめなさいとたびたび諫めている。
岩倉は公家だから、天皇が馬に乗るなどとんでもない、と考えてもおかしくない。
天皇に馬乗りを教えたのはだれか、「左右の近侍」と馬を乗り回したというがその近侍とは誰か、
おそらく山岡鉄舟もその中にいた一人であろうな、などと思う。

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