籤引きの真相

それはまあそうと義持は、子の義量が死んでも次期征夷大将軍を決めず、
空位のままほっといて、自分が死ぬときにも後継者の指命を拒否した、
というのは、普通に考えれば、もう足利宗家から将軍ださなくてもいいじゃん、
事実今も幕府は問題なく動いてるし、
すでに幕府は守護連合みたいなもんで、将軍とか飾りだからいらないんじゃね、とか、
守護が衆議して決めればいいんじゃね、とか、
そんなことを考えていたんじゃないかと思う。
江戸時代の徳川宗家みたいに是が非でも将軍職は世襲しますよみたいな気分はなかったのではなかろうか。

江戸時代の幕臣とか譜代大名らはみんな徳川幕府によりかかって、
運命共同体みたいになっていたが、
室町時代は守護の連合体みたいなもんで独立性が高いから、
必ずしもみんなで一生懸命足利家をもり立てようという感じではない。
日野とかの一部の公家が足利宗家に執着してただけなんじゃないかと思える。
江戸時代の感覚で室町時代を見ても雰囲気わからんと思う。

で、
三宝院門跡の満済というのが義持の護持僧で一番の側近、
籤引きで定めることを決めたのは畠山満家であって、
この二人が仕組んだいかさま籤ではなかろうかということについて、
「籤引き将軍足利義教」に若干詳しい考察があるのだが、
思うに、黒幕は義持の正室で義量の生母である、日野栄子。
そしてその日野家当主義資であったろう、と考えるのが自然だ。
日野家は義満の正室と継室を出している。
足利将軍家の内情に一番詳しくかつ親密な関係だったはずだ。
四人の候補を見るに、一番の年長は義円(義教)。出自も比較的まっとうだ。
他の三人は母親の得体がしれない。
また、日野義資はおそらく義円が青蓮院門跡であったころの世話役であったと思われる
(いやそもそも、義円にあたりをつけていたからこそ世話役を買ってでたのだろう)。
義資は義円に、自分の妹・宗子を正室にするならば将軍にしてやろうと義円にもちかける。
籤で義円が選ばれるとすかさず彼を日野邸に連れ込み(1428)、
元服が済むと宗子を正室に送り込む。
こうして、義量の血統が絶えても、日野家は足利家の外戚のまま存続することを得た。

ところが、将軍となった義教は日野がじゃまで仕方ないから、
正親町三条家の尹子という女を正室にすると勝手に宣言(1431)、
宗子は離縁され、その代償に宗子の妹の重子が側室になる。
重子は義勝(1434)、義政(1436)、義視(1439)を産む。
十分男子が生まれ、もはや義教が不要になった日野家は、
正室正親町三条氏が嫡男を生まないうちに、赤松満祐をそそのかして
(或いは、義教が次に粛清するのはおまえだ、とか脅しをかけて)義教を討たせ(1441)、
義勝に将軍を継がせる(1442)。
義勝は早世してしまったので、
義政を跡継ぎにして(1449)、日野富子を正室にすえる(1455)。

という具合だったと考えるとすんなりいくではないか。
まさに仁義なき戦い室町編(笑)。
足利家が日野家にがんじがらめにされていくのが目に見えるようだ。

つまり、籤引きなんて単なるいかさま、嘘っぱちだ、と言いたいわけなのだが。

義教が足利宗家を継いでもすぐには将軍宣下がなされなかったというのは、
義量が死んで長いこと空位だったから、別に義教が将軍にならなくてもいいんじゃね、
くらいの雰囲気だったのではなかろうか。
鎌倉公方の足利持氏が代わりに将軍宣下されるんじゃないか、
という可能性があったとは思えないなあ。
日野家としては義教くんが将軍になってくれないとただの守護の中の一人みたいになって困るから、
いろいろ運動したんだろうなあ。
そんくらいじゃないのか。

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