甲府勝手小普請

甲府藩藩主は家綱・綱吉時代には松平綱重と、その息子の綱豊であったが、
綱豊が綱吉の跡継ぎ家宣となったために甲府は没収されて綱吉の寵臣柳沢に与えられた。
家宣が将軍になり、柳沢吉保は失脚したが、そのまんま甲府藩主だったが、
吉宗の代、というより、吉保の子供の代に転封され、甲府藩十五万石は幕府直轄に戻された。
長男吉里は大和国郡山藩十五万石に移され、その弟らにも一万石が与えられたというから、
懲罰的な転封ではなく実質加増だった、とも言える。

いずれにしても江戸周辺は幕府直轄か旗本の料地になって、たいていは代官が治めていた。
司馬遼太郎『燃えよ剣』では、農民が武装して剣法の修業も勝手し放題だったために、
近藤勇や土方歳三のような農民上がりの武士が出てきた、と言っているが、
ともかく関東近辺は、国定忠治みたいな、武士階級ではないが長脇差しを指した、
農民なんだか無宿人なんだか渡世人なんだかのような連中の温床になっていた。
江戸後期の旗本というのは根っからの怠け者で、無為無能で事なかれ主義なので、ろくに取り締まりもしなかった、と思われる。

ウィキペディアの「甲府勤番」に「甲府勝手小普請」というのが出てくる。

> 老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。

> 甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が創設され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。

でまあ、「山ながし」とか「勝手小普請」というのが「窓際族」とか「左遷」とかのイメージに結びついて、
一生懸命出世街道を目指して頑張ったのに田舎に左遷されたとか閑職に回されたとか、
そんな戦後日本のサラリーマン社会をそのまんま江戸時代の武家社会に投映したような時代小説(気持ち悪くてあまり好きなジャンルではない)に使われることが多いように思われるが、
事実はもっとやばいものだっただろう。
博打や借金踏み倒しでとうとう懲戒処分を受け、飼い殺しにされた不良浪人、という表現が当たっていよう。
江戸で手に負えない乱暴者を甲府なんてところに追いやったのだから、虎を野に放つ、という言い方の方が近かろう。
源為朝を九州に追放するようなもんだ。
甲府の治安はそうとう悪かったに違いない。
だからこそ「甲斐一国一揆(天保騒動)」のようなことが起きたのではないか。
関東の無宿人、渡世人らと、勝手小普請が主犯。
いわゆる百姓一揆とか、飢饉による打ち壊しというのとはかなり違ったんじゃないかと思う。

> 吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となり、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。

もし不良浪人が主犯であればそれは幕府の恥であるから、あまり表には出さず、無宿人のせいにする、
もしくは小普請であったがすでに処分されていたから無宿人か浪人だった、ということにしたのではなかろうか。

> 多摩地域では天保騒動を契機として、豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。

これはねえ、順序が多少入れ違っているんじゃないのかなあ。
「勝手小普請」「無法地帯」「農村剣術」というものが流行していたので、
そいつらが臨界点に達して暴走し、
甲斐一国一揆が起き、甲斐一国一揆を参考にして大塩平八郎の乱が起きたんだよ。
幕府とか旗本が弛緩し腐敗してたのが根本的な原因だと思うな。

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