ヒストリエとか

KDP をやり始めて、おぼろげではあるが、読者がいて、他にどういう傾向の本を読んでいて、
どんな感想を持っているのかが、わかるようになった。
パブーの頃はPVとダウンロード数とコメントしかないのだが、
コメントはほとんどもらえなかった。
第三者の意見というのがほとんどまったくわからなかった。

でまあ、今は『川越素描』の無料キャンペーンをやっているのだけど、
いっそのこと『エウメネス』を無料キャンペーンにしようと思ったが、
せっかく有料で買ってくれた人がいるのにすぐに無料にしては失礼な気がするので後回しにするが、
他に広報手段もない私としては、定期的にすべての本を無料キャンペーンしようと思っている。

『川越素描』はもともと、現代のストーリーと過去のストーリーが並行する話にしたくて、
現代の話から歴史の話に誘導した方が読者がその世界に入っていきやすいだろうと思ってそうしたわけだが、
こういうのは普通タイムスリップというSF仕掛けになっているのだが、私はそういう手垢の付いた手法はいやだったのと、
『千夜一夜物語』的な入れ子になった劇中劇が書いてみたかったので、
実験的にあんなぐあいになったのである。

今から読んでみるとあまり読みやすくない。
というか無駄にストーリーを複雑にしてしまっている感もある。
しろうと向けでは決して無い。普通の小説を読み飽きた人なら面白いと感じるかもしれない、という程度。
最初にプロットだけ決めて書き始めたら膨大な量になってしまった。
考えながら書いていったという意味ではまさに『素描』かもしれない。
『素描』というよりは『実験作品』、かな。

またジャンルを間違えてしまったが自分では変更できない。
「世界史」ではない。
「日本史」だ。
KDPの中の人にお願いしなきゃいけないのだろうか。

山崎菜摘というキャラにしても無理があると思う。
所詮こんな女性はいないと思うのだ。
文学少女といっても扇毬恵くらいにしておくべきだと思う。
仁科世津子の方がまだ現実的かなと思う。

今なら歴史初心者向けに書くなら全然違う書き方をすると思う。
多少構想はある。
たとえば歴史好きな男とパワースポット好きな女がどうしたこうしたとか。
歴史蘊蓄が大嫌いな京都の舞妓さんとか。
歌物語的百人一首とか。
ようはまあ、初心者は知識が限られていてその外の広がりを知らない。
まずは誰もが知っている知識でもって興味を持たせて、どんどんその外まで連れ出さなくてはならない。
知識が増えて世界が広がるほど歴史は面白くなる。
そのおもしろさを体験させたいわけである。
そうすると入り口は正門がよい。
いきなり勝手口から入れようとしてはダメ。

『アルプスの少女デーテ』『司書夢譚』なども入れ子構造、多重構造の話になっている。
『セルジューク戦記』なんかも、時系列だが西欧、東欧、中近東、中東の話が並列しててややこしい。
そういう複雑な構造をした話を書くのに凝ったこともあったが、
ここらへんで新規読者を獲得するのはたぶん無理だろうと今では思ってる。
もっとシンプルな話の方が良い。

『エウメネス』はたまたま実在する『ヒストリエ』という漫画とネタがかぶったのだけど、
キャッチーな主人公を使った小説というのも、やはり読者を誘導するには必要な気がしてきた。
坂本龍馬とか土方歳三なんかの話は絶対書かんけどな。

『ヒストリエ』の主人公がなぜエウメネスなのか、ということを考えてみるに、
たぶん、アレクサンドロスをそのまんま主人公にしてはあまりに破天荒でなんでもありのキャラになってしまうし、
特にファンタジー仕立てにするとコントロール不能になりかねん。
キャラとしても手垢が付きすぎている。
自由にいじれるキャラがほしい。
そこでアレクサンドロスの後継者の将軍たちの誰かを主人公にしようとした。
エウメネスは前半生が不明なのでキャラを造りやすいから、
アレクサンドロスと出会うまでのいろんな話をこしらえて、
ペルシャ征服の話も書いて、
そのあとの継承者戦争も書こう、ということだろう。
そうすると10年くらいの連載になってもおかしくない。
むしろ、長期連載するためにエウメネスを主人公にしたのだろうと思う。

私の場合もやはりアレクサンドロス大王ものを書きたかった。
一番興味があったのは王妃ラオクスナカ(ロクサナ)がペルシャの王女だったということと、
アレクサンドロスがスーサで合同結婚式をやったということ。
なぜ王は自分がペルシャ人と結婚するだけでなく将軍たちにもペルシャ人と結婚させたのか。
もひとつはゲドロシアの話が面白いと思ったからで、
それらを組み合わせて短く簡潔にまとめようと思った。
つまり最初からコンセプトも尺もヤマもオチもまえふりも、全部決めてから書き始めて、そのとおりに書いたたわけで、
『川越素描』の頃からするとだいぶ進歩している、と自分では思っている。
内容が、というより、執筆の仕方が、という意味だけど。

私は一人称で書くことが好きなのだが、それはあきらかに FPS の影響であり、
日本の私小説の影響ではあり得ない。
つまり「自分」とか「実体験」を描きたいのではない。
「自分」の見たモノをありのまま読者に追体験させたいからではない(ただし『安藤レイ』は途中までは実体験なのだが、これは個人的な入院日記のように見せかけて、だんだんSFミステリーのようにしていくという実験。『紫峰軒』はモノローグ、一人語りだといわれても仕方ないかもしれないがもちろんフィクションである)。
自分が作り出すフィクションの世界の中に読者を完全に埋め込みたいから、
immersive な感じ(※没入感。バーチャルリアリティ用語です)を出したいから一人称にしているに過ぎない。
さらに『アルプスの少女デーテ』『巨鐘を撞く者』では一人称視点が次々に切り替わっていく。
プレイヤー変更あるいはジョブチェンジとも言えるし、ルポルタージュ形式とも言える。
実際、『巨鐘を撞く者』は子母沢寛『新選組始末記』を真似たものである。

エウメネスはアレクサンドロスを描くための三人称視点として選んだ。
つまり TPS 的な手法でアレクサンドロスを描きたかった。
一番王に近い視点に読者をおいて、王の実像を描きたかった。
歴史上伝説上の王、超人的な英雄、現人神的なもの、ではなく、
目の前に実在し、今まさに生きていて、会話できる、等身大で生身の王、というものを。
これはつまり NPC (Non playable character) 的な表現だと思っている。
アレクサンドロスを観察しているエウメネス、という構図。二人称視点、とも言えるかもしれない。

だいたい私は学者か詩人か芸術家、技術者を主人公にすることが多い。
さらに彼らを視点として王とか将軍を描く。
アレクサンドロスに対するエウメネス、
北条時行に対する宗良親王、
明治天皇に対する高崎正風、
ナポレオン三世に対するアルムおじさん、
サンジャルに対するオマル・ハイヤーム、などなど。
まったくそうではない小説を書くこともあるが、自身が学者であり詩人であると思っているので、
その方が自分を歴史の中に投映しやすいし、
従って小説を書きやすい。
というより、そっちの方向にプロットが流れやすい。
読者もまたそうであるとは思わないがそうしないとそもそも小説が書けない。

『ヒストリエ』もまたエウメネスに感情移入させたいのだろう。
あれはしかし古代ギリシャを舞台としたファンタジーものだから、
そういうものが好きな著者がそういうものが好きな読者をひっぱっていけばそれでいい。

ちなみに『ヒストリエ』を直接読んだわけでなく、
いろいろ調べてそんなんだろうなと思っただけである。
私の話というのは、古代ギリシャ史と言うより、
古代アジア史とかペルシャ史とかヘレニズムとでもいうもので、
テイストは全然違うと思う。
少なくとも西欧視点ではない。

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