ハンニバルが越えた峠

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ハンニバルがアルプスのどのへんを越えたかというので、
日本語の文献で詳しいのだと塩野七生の『ローマ人の物語』ハンニバル戦記くらいしかないので、
とりあえず読んでみると、
ギリシャ人のボリビウスはピッコロ・サン・ベルナルド峠だと言い、
ローマ人のリヴィウスはモンジネブロ峠だと言い、ナポレオンはリヴィウスに賛同している、などと書いている。

でまあ、ナポレオンのアルプス越えのイメージがあるので、ハンニバルもアルプスの北側から南のロンバルディアに降りてったようなイメージがあるわけだが、
図に書いてみると、アルプスはアルプスなんだが、ずっと西のはじの、フランスとイタリアの国境付近を越えたのはまず間違いない。
グルノーブルまで来たってことがわかっているのなら、
今もよく使われている街道と峠を使って、スーザに降りて、トリノ方面へ向かったと考えるのが自然だと思う。

モンジネブロはイタリア語で Monginevro、
極めて不親切な表記だ。
フランス語で Montgenèvre (モンジュネーヴ)と書いてもらわないと検索できないだろう。
ピッコロ・サン・ベルナルドはまだ検索に引っかかりやすい。
ピッコロはイタリア語で小さいという意味で、
フランス語だとプチ・サン・ベルナールとなり、
これはグラン・サン・ベルナールという別の峠があるからだ。
ナポレオンはこのグラン・サン・ベルナール峠を越えた。
セントバーナード犬の故郷でもある。
プチ・サン・ベルナール、グラン・サン・ベルナールともに、サン・ベルナルディーノ峠とはまったく違う。

でまあおそらくモーリエンヌから、モンスニ(Mont Cenis, Moncenisio)峠、スーザと越えていったのではないかと思うのだが、
そのルートについては『ローマ人の物語』には言及されていない。

1868年にイギリスの鉄道会社がモンスニ峠に世界で初めての登山鉄道、[モンスニ鉄道](http://it.wikipedia.org/wiki/Ferrovia_del_Moncenisio)というのを通したのだが、
これが厳密にはモンスニ峠を越えてない。
わざと迂回させたのかもしれないが、北の方、モンスニ湖の横を通している。
1863年にフェルという人が考案した、真ん中に第三のレールを通す方式。

ナポレオン三世の軍隊もモンスニ峠を越えたと思うのだが、当時のフランス語の新聞でも読まなきゃわかるまい。
やれやれ面倒だ。
1859年のことで、まだモンスニ峠鉄道は通ってない。
乗合馬車みたいなのが通ってたらしい。

なんでイギリスの会社がこんなところに鉄道を通したかだが、
ここに鉄道が通ると、ドーヴァー海峡のカレーから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っていて、そこからエジプトのアレキサンドリアまで船便で、
そこからスエズ運河を通ってインドまで手紙を届けられるのである。
ところが1871年モンスニ峠の近くにフレジュス鉄道トンネルが通るとモンスニ峠鉄道は廃止された。
わずか3年しか使われなかったということだ。

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