改暦

『明治天皇記』明治4年正月には、寅の刻四方拝、などと書いてあるが、
明治5年正月には午前4時四方拝、とある。
グレゴリオ暦への改暦は明治5年12月3日の翌日を明治6年1月1日とすることで行ったとされるが、
すると時刻の方が先に西洋風に改められた、ということか。

寅の刻というのは天皇が江戸にいるときは江戸の、京都にいるときは京都の日の出・日の入りを基準にしたのだろうか。
電信や無線で一瞬で情報が伝わるようになると、地域で時刻が異なるのははなはだ都合悪かっただろうし、そもそも精度が悪かっただろうな。

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