保元新政

[姝子内親王](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9D%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B)に

> 7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。

とある。
保元の乱の後、信西が、荘園整理、内裏再建などの政策を行ったことになっているのだが、
これは守仁親王が即位して二条天皇となり、後白河院の院政を停止して、親政を開始してから、
本格的に行われるようになったものだと思っていたのだが、
鳥羽院崩御後、
ただちに動き出したということは、
白河・鳥羽院政時代の政治を否定しようという動きが、公卿の中であった、という証拠なのではなかろうか。

また、

> 保元2年(1157年)正月23日、姝子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。

とあるが、この大内裏というのは、のちに二条天皇が内裏とした土御門東洞院殿のことなのではなかろうか。

土御門東洞院殿は藤原泰子の所領であったが、1156年に死んだあと、
藤原邦綱の邸宅となった、とあり、時系列的にうまく説明ができるのである。
藤原邦綱の娘は六条院の乳母となったとあり、
ということは二条天皇が同居していた可能性が高い。

つまり、信西と藤原邦綱は、里内裏とか荘園などに基づく白河院や鳥羽院の中世的院政を否定して、
律令的な天皇親政を目指そうとしたということであり、
それは後三条天皇時代の政治に回帰しようとしたことを意味しよう。

信西は1159年の平治の乱で失脚したが、
保元新政は二条天皇の閣僚となって継承されることになったのだろう。

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