待賢門院・藤原璋子

待賢門院・藤原璋子だが、この人はかなりおかしい。

父・藤原公実が七歳の時に亡くなって、
白河天皇と祇園女御の養女になる。
なぜ?
なぜ公家の娘が天皇と愛妾の養子にならねばならぬ。

母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。
どうも白河院と光子の関係があやしい。
璋子は白河院と光子の子ではないのか。

だが、待賢門院を鳥羽天皇に入内させると、二人は兄妹どうしの結婚となる。
いくらなんでもそんなことはしないだろう、親として。
とすれば、
璋子は公実と祇園女御の間の子だったのではなかろうか、と思えてくる。
1107年、公実が死んだあと公実の愛人だった祇園女御を白河院がひきとった、と。

> 長治2年(1105年)、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという(『中右記』)

うーん。
公実が死ぬまえから、白河院の愛人だったっぽくもあるな、祇園女御。
まあ、どちらでもよい。
丈六は一丈六尺、約4.85メートルというからかなりでかい阿弥陀如来像だわな。
どこからそんな金が。
パトロンがいたわけだが、それは誰であったか。

待賢門院のサロンにはたくさん女流歌人がいる。
女流歌人と言えば聞こえはいいが、父は公家でも母が不詳。
つまりは公家の妾、おそらくは祇園の遊女。

待賢門院と鳥羽天皇の子が上西門院。
彼女は母親のサロンをそのまま引き継いだ。
やはり女流歌人が多い。

後白河天皇が今様狂いなのは、まず間違いなく母・待賢門院の影響だろう。
後白河天皇が特別変異なのではない。
崇徳院も待賢門院の子だが、早い時期に天皇に即位して母と別居したから、影響が少ないのだろうと思う。
後白河は部屋住みのまま待賢門院の影響を受け続けた。
スーパー英才教育を受けた。
待賢門院もまた七歳から祇園女御の元でスーパー英才教育を受けた。

鳥羽天皇は父・白河院と違い、割とかたぶつだったと思う。
高陽院も美福門院もたぶんかたぶつだったと思う。
父親も公家、母親も公家、息子も娘も公家、というようなちゃんとした家庭に生まれ育った連中を好んだと思う。
というより、そういう摂関家の連中に好かれた人なのだと思う、鳥羽院は。
白河院は、もっと自由人で遊び人だった。遊ぶときは尊卑を問わず的な。

待賢門院と美福門院はまったく両極端の女性であった、と思う。

鳥羽天皇は、父白河院のような、うわっついた、ちゃらちゃらした宮廷が嫌いだったのだろう。
だれが父親でだれが母親かもわからんような世界。きもちわるい。
だから、全とっかえしたかった。
それで美福門院の子・近衛天皇をかわいがった。
のではなかろうか。

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