ネタのかぶり

『墨西綺譚』を今読み返すと失敗したなと思うよ。とにかく、登場人物が多すぎる。書く方は最初から頭の中に登場人物もストーリーもできあがってから書くわけじゃないですか。だから、書き残しても自分は脳内補間できちゃう。自分ではどこが説明不足か気づかない。必要十分に書いていても、読者はたいてい一度しか読まないから、もっと冗長に書いてあげないといけない。くどいくらいに。何十回も読めばたぶんわかるんだが、そんなことふつう読者はしない。一度さらっと読んで残った印象で判断する。

しかし、くどく書きすぎたらストーリー展開がだらけるんじゃないかと心配で、つい話をはしょりすぎてしまう。逆に自分では気づかないところでくどくど書いてしまう。

私の場合愛読書が『日本外史』だったから登場人物が多すぎるのはむしろ当たり前なんだが、ああいうのは小説にはあり得ないわけだよね。

『墨西綺譚』だけでなくて他の私の書いたやつも読むと、部分的にキャラかぶってたりネタかぶってたりするから、なんとなしにどんな人がモデルだったのかとか、どんな体験に基づくのかとか見えてくると思うが、そこまで読んでくれる人も滅多にいない。私自身はできるだけネタかぶらないようにしているが、どうしてもかぶる。以前はここかぶってるねと指摘されるのが怖かったが、実はそこまで読んでくれるひとはめったにいないってことがわかってきた。今は、そこまで読んでくれましたかと逆に感謝するかもしれない。そのうちわざとかぶらせといて、これは昔のここで使ったネタでしてとかネタばらししたりとか。ある程度はね、自分のネタなんだから、使い回しても誰も怒らないと思うのよね。
少なくともなんだ同じネタじゃないか金返せとは言わないと思う。そんなこといったらバロック音楽とかどうするんだということになる。

だいたい作家って、ネタかぶってるよね。夏目漱石とかね。いや、そうじゃない。良く研究された作家はネタがかぶっていて、あまり注目されてない作家は研究されないからネタがかぶったかどうかも知られてない。

『紫峰軒』は最近書いたものだから、そのへんのバランスはだいぶ改善されていると思う。しかし『紫峰軒』みたいなのを量産するのは難しい。ネタばらしするとあれに出てくるおばちゃんはだいたい三人くらいの女性がメインのモデルになっているのだが、一人のヒロインに三人のモデルを使うとなると、どんだけ知り合いがいなきゃならんかしれん。もちろん赤の他人を取材してもいいんだが。とにかくたいへんなのですよ。すごく贅沢なネタの使い方してるんです。おいしいところだけ残して組み合わせて足りないところはうまく補完する。ただのフィクションでもないし、かといって私小説でもないんですから。そこは察してください。一人の人間に書ける量はその人の人生経験で決まるわな。そんなには書けないよ。

たぶん絶対に気づかないネタばらしを一つだけすると、『墨西綺譚』のヒロイン乾桜子と『西行秘伝』のヒロイン源懿子はもともとは同じ女性がモデルなんだが、私自身の頭の中では同一人物なんだが、読んだ人にはさっぱりわかるまい。ていうか、ほとんどの人は『墨西綺譚』のヒロインが桜子だと気づかないかもしれない。桐子がヒロインかと思うとあれ違うな、じゃあだれだろうくらいだろうか。そう、『墨西綺譚』は最後まで読まないと誰が主人公かわからない。実は主人公が誰かを当てる推理小説なのです(笑)。

『特務内親王遼子』の遼子と『エウメネス』のアマストリナと『将軍家の仲人』の喜世は、だいぶキャラかぶってるわな。でも、どのくらい読者は気づいてるんだろう?

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