れ+ぬべし

小林秀雄の『西行』を読み返しながらふと気になった。

西行はそこまで一気に清盛に語った。
「おまえはつまり、たった一人の女のために家を捨て、世を捨てた、そういうのか。」
「悪いか。」
「いや、悪くはない。だが、未練はなかったのか。」
「未練か。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
(未練だと。この世に未練のないはずもない。だから、出家して、未練を断ち切ろうとしたのだ。)

だが、俺ほど未練な男もあるまいよ、たった一人の女にな。おまえは、病を得て気弱になったから出家したといった。俺もまた不治の病に罹ったのだ。十分出家する理由になろう。」

『西行秘伝』の中でわざわざ和歌を現代語訳したのはこの箇所だけなのだが、
つまりはほかの歌はある程度素養があれば現代語訳しなくても意味はわかるがこの歌は難しい。

一番難しいのは「惜しまれぬべき」の解釈である。

この歌は「山家集」には見えず、したがって西行の真作ではない可能性が高い。
「鳥羽院御時、出家のいとま申すとてよみ侍りける」または「鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める」
などの詞書がついているので、鳥羽院のもとへ西行がいとまごいに来て、院から「惜しくないのか」
と尋ねられ、「そのように惜しまれるような私の人生でしょうか」と返事をした、
と解釈するのが正しいらしい。
西行と鳥羽院ならこんなやりとりがあったであろうと後世の人がでっち上げた話であろう。
この解釈ならば「惜しまれぬべき」は「人に惜しいと思われるような」と受け身に解釈すればよろしい。
「ぬべし」には推量の意味があるからだ。
しかしこの解釈はいくつかの点で非常に苦しい。
まず、院に対してあまりにも不遜な物言いである。
恋人どうしならあり得ても、院と従者の会話ではない(あるいは、私の話のように、西行と清盛が非常に親しい仲だと仮定すれば、「惜しいか」「惜しいな」という呼びかけに対する返事とみることもできよう)。
あと「この世」を一般に「俗世」ではなく「私の人生」と取るのもかなり苦しい。

世の中には
「惜しむとて惜しまれぬ」を「惜しんでも惜しみ切れない」と不可能に解釈する人が多いようだ。
だが、「れ」を可能、「ぬ」を否定に解釈するのはおそらく現代人にありがちな誤りであろう。
うしろの反語を伴うと「惜しみ得ないこの世であろうか。いや、惜しみ得る」となって意味が通らなくなる。

問題は上の私のような解釈が可能かどうかなんだが、
「惜しまれぬべきこの世かは」が反語であるから、なおさら解釈が難しい。
「惜しみ得るようなこの世であろうか」
と解釈することは、可能だ。
つまり
「とっても惜しい」
と解釈することは、苦しいが可能だ。
不本意だが小説の中の解釈としては上のようでもぎりぎり可能だろう。

もとはどこかの坊さんの詠み人知らずの歌であり、
「あなたは人生が惜しいというが、人生は惜しむほど価値のあるもんじゃありません。思い切って出家したほうが後生のためです。」とかそんな極めて説教臭い意味であろう。
シチュエーションとしては、どこかのお坊さんが世俗の人を諭して出家させようとしているような感じ。
それをむりやり鳥羽院と西行の間で詠まれた歌ということにした。

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