1185か1192か

1185年は平氏が滅んだ年である。奥州藤原氏はまだ滅んでいない。
義経もまだ討たれてない。
諸国惣追捕使とか守護とか地頭とかいうのは必ずしも1185年に始まって、また、
この年に確立したとも言えない。
どちらかと言えば緊急時の臨時措置とみられていた。
そして鎌倉幕府の軍事力や警察力が確定するのは明らかに承久の乱においてである。

実質的な幕府の成立というのであれば、1221年の承久の乱であるべきであり、
平氏が滅んだ年では結局、説得力としては、源平合戦の域を出ていないのだが、
そもそも源平合戦という言葉が嫌いで、治承・寿永の乱と言い換えたがる学者の方々は、
そんなことで良いんですかと言いたくなる。

[徳川慶喜と勝海舟](/?p=3111)
で書いたのだが、
少なくとも勝海舟は、武家政権というのは、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、
徳川慶喜が大政奉還したときまでだという認識であった。
頼朝三代とその後の宮将軍、室町将軍、徳川将軍というものがつまりは幕府なのである。
武家の棟梁が天皇に征夷大将軍に叙任されることで、オーソライズされている状態、それが幕府。
武士が実質的に政権を掌握している状態を幕府であったとは考えていなかったと思う。

1192という年はただ頼朝が征夷大将軍になったというだけの年ではない。
武士の共通認識、日本人の伝統的な歴史観、
象徴的な意味での鎌倉幕府の始まりはやはり1192でなくてはならない。
1185は根拠としてはかなり脆弱だと思う。
学術的な意味としてなら1221も許せるが。
誰がなんのために1185だなどと言い出したのだろうか。
やはり天皇とか征夷大将軍の権威を認めたがらない人たちではないか。
あるいは江戸時代までの日本人の感覚は古くさいといいたい人たちではなかろうか。

> 鎌倉に もとゐ開きし その末を まろかにむすぶ 今日にもあるかな

> 結ぶうへに いやはりつめし 厚氷 春のめぐみに 融けて跡なき

ついでにいっておけば律令制は天皇を元首として戴く明治政府によって正式に、
正当な手続きを踏んで、新しい制度に置き換えられたのである。
実質的にはすでに嵯峨天皇の時代に破綻していたが、
制度としては完全な形で残っていた。浅野内匠頭とかいう官位官職がそうだ。
徳川幕府の軍事力は別として、その権威は、完全に勅令と律令にオーソライズされる形をとった。
室町幕府をそっくりそのまままねたからだ。

同様に維新政府時代の太政官令、これも正当なものである。

何が実質的(学術的)であり、何が正当な手続きを踏んだものかというのは、
別に考えなくてはならない。
つまり両者を混同するとわけわからなくなる。
或いはわざと混同してわけわからなくしたい連中がいる。

ローマ教皇がなぜいるのかとか神聖ローマ皇帝はなぜローマ教皇に戴冠されなくてはならないのかとか、
東ローマ皇帝はなぜコンスタンティノープル総司教に戴冠されねばならないのかというのと、
同じ問題だ。
オーソライズされない軍事政権は不安定で、どうしても権威付けが必要になってくる。
徳川家が天皇家に依存したのもまさにそこだ。
複数のオーソライズされた政権というのはローマ帝国にはよくあった。
複数の教皇が立てられることもあった。
複数の教皇と複数の皇帝の間で誰が誰をオーソライズするのかというので良く戦争になった。
なんのことはない、日本の歴史と同じだ。

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