連歌はつまらない、連歌が和歌をつまらなくした元凶ではないか。

知らぬことにわざわざ首を突っ込むのは危険なのだが、
なんとなく、
和歌をつまらなくしたのは連歌ではないか、と思い始めた。

秋成とか宣長とか真淵とか景樹とか蘆庵というのは、
やはり他の歌人たちとは何かが違う。
特に誰か一人と言えば秋成が良い。次に景樹か蘆庵だが、宣長の歌が私は好きだ。
契沖もやや面白い。
宣長と契沖は二人ともつまらぬ歌を大量に詠んだ人ということになっているが、
彼らよりつまらぬ歌人ならいくらでもいる。
秋成らは、自分も一生懸命良い歌を詠めば必然的に後世評価してもらえるのではないか、
名が残るのではないかと思えるくらい、
同時代の他の歌人と比べると、歴然と違う。

吉田兼好はかなりつまらない。
面白いエッセイを書くくせに見るべき歌はほとんどない。
ま、ある意味清少納言や紫式部もそうだが。
頓阿がまたつまらない。
一生懸命に彼の良い歌を探しているつもりがいっこう見つからない。
正徹と肖柏はわりと面白いが、
宗祇はかなり面白くなく、
藤原惺窩もつまらない。なんだこの人とか思う。

だが、細川幽斎や木下長嘯子や松永貞徳は割と面白い。
後水尾天皇は面白いが霊元天皇はつまらない。
霊元院は小説に書いたからなんか良い歌はなかろうかと探してみたがいっこうに見つからない。

田安宗武は良いのもあるが悪いやつの方が多い。こういう人は一番信用できない。
つまり、吉宗の息子だからというのもあるが、代詠が疑われる。

正岡子規が実朝(が詠んだとされる)歌

> もののふの やなみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

を誉めているのだが、
確かにこの歌はよい。
最初から最後までイメージがびしっと決まっている。起承転結がある。
或いは枠構造がある。
初句から始まり、結句まで気が抜けず、うまくひねって落としてあるのが良い歌。
そして再び口ずさんでみて、イメージがますます膨らんでいくのが良い歌。
良い歌はただの言葉ではない。映像であり音楽でもある。
一瞬、ただの31音の言葉に過ぎないことを忘れさせてくれる。

連歌にはおそらくそれがない。
なんとなく雰囲気がそれっぽければ良く、イメージが濁っている。
雰囲気だけで中身がないのだ。
連歌はたぶん誰にでも詠める。
そうとう下手に詠んでも、続ける人がリカバーしてくれるのかもしれない。
ただリカバーしたとしてももともと一本筋が通ってないからよほどのことが無い限り面白くはならない。
水増しして大量生産した感じ。

和歌も連歌みたいで良いじゃんということになると、
和歌までもつまらなくなってしまう。
一般人は違いがわからないから余計にそれで良いんだと思ってしまう。

現代人もそうだと思う。
なんとなく百人一首ぽければいい、なんとなく俵万智みたいならいい、
そこに際限なく演歌やJPOPのフレーズが混ざってきても気にならない。
だからまともな和歌が詠めないのだ。

連歌から発句が生まれ俳句になった。
俳句のひどいのも多い。
俳句のつもりで和歌を詠むとなおひどい。
俳句は、以前にも書いたかも知れないが、あれは造園や生け花と同じで、
言葉を三つ配置しただけのものだ。
「天地人」とか「主副客」というアレである。
和歌はもっと複雑なことが表現できる。

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