亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

江の島合戦

04.25.2014 · Posted in 歴史

成氏が鎌倉公方に復帰するときには当然父持氏についた恩顧の家臣らを鎌倉に連れてきたわけだが、 幕府再建の名のもとに、事実上の鎌倉の領主である上杉家宰の長尾や太田は、 その所領の一部を成氏の名のもとに没収されようとした、というのはあり得る話である。 その多くは実際没収されたであろう。 だが、長尾の本貫である鎌倉郡長尾郷までも、成氏の家臣簗田持助にとられようとして、 長尾は反発した。 家宰長尾景仲は主君関東管領上杉憲忠にその取り消しを願い、また簗田持助と多少の揉め事があっただろう。

それで長尾と太田が先に鎌倉公方の御所を襲撃したという記述も見えるが、 襲撃計画が事前に漏れて逃れた、というほうが事実に近く、おそらくは、 成氏が江の島弁天を参詣したときに簗田あたりがそそのかして、鎌倉に戻らず、 場合によっては頼朝のように海路安房にわたって、それから持氏らの本拠であった結城に戻り、再起をはかりましょう、 くらいのことは言ったかもしれない。

つまりは成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 いきなり長尾太田が鎌倉御所を襲うというのは信じられない。 また江の島合戦という呼称自体が、成氏が江の島を陣としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあって、 しばらく成氏も鎌倉には戻れず、 憲忠も戻れず、 太田は伊勢原の糟屋館に避難し、 太田資清の主君上杉持朝は厚木七沢に避難した。 憲忠も七沢にいたらしいから、長尾も七沢にいたのであろう。 憲忠の父憲実は伊豆に隠遁していた。

要するに成氏に対する持朝や長尾や太田の謀叛というよりは、 幕府再建当初のトラブルのようなものであり、ゆえに仲裁が入ることによってなんとか収まったのだろう。

足利氏はふるさと関東を離れて京都にいながらにして、 鎌倉公方と関東管領によって関東を支配しようとした。 鎌倉公方は京都の公方、つまり室町将軍の代わりに関東の守護を支配するはずであり、 京都扶持衆という言葉あるように、室町将軍に直接仕える関東の守護もいた。 将軍に関東管領に任命された上杉氏なども実質的な京都扶持衆といえる。 もし関東管領が鎌倉公方に任命されるのであれば関東の独立性はもっと高まったはずだが、 それを京都が許すはずもない。

足利氏の本貫が北関東の足利であるように、 もともと足利氏は北関東と親和性が強い。 上杉は京都から関東管領を拝命し、五ないし八くらいの守護を束ねたわけだが、 それは京都の代官役を買って出たからである。 鎌倉公方はどんどん土着していって関東武士(一国のみの守護ら)に戴かれるようになる。 それで当初は鎌倉一極であったが、 後には京都派は伊豆腰越公方に、関東派は常陸古河公方に二極化したが、 それはそれで一つの安定解であった。 でまあ後付の理屈のようにもみえるが再び関東を一か所で支配しようとしたときに、 二極の最前線にあたる江戸城を家康が居城に選んだのは必然だといえる。

成氏はすんなり鎌倉に入ることができず、 出たり入ったりしたのが江の島合戦。 結局鎌倉に居着くことができず鎌倉を出て北関東に奔ったのが享徳の乱、ということになる。

南総里見八犬伝でも、持氏の遺臣である里見義実が頼朝のように海路安房に渡った、という記述があるのが興味ぶかい。

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