東大五月祭

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2011年ころに「帝都春暦」という小説をどこかの新人賞に応募してそのままにしているのだが、
これは関東大震災直後の主に東大本郷キャンパスを描いたものだった。


> そんな四方山話を交えながら、僕は例によって、昼二時過ぎには中座して、遅い昼食をとりに学食に向かった。島村先生も宮内さんもお弁当持参なので、僕だけ学食を利用している。この学食もまた、校庭の空き地に建てられた、震災後のバラックだ。新しい学食は、今建設中の、安田講堂という建物の地階にできる予定だ。他にも続々と新築の校舎が建てられてる。

> 本郷キャンパスの校舎は地震による倒壊、またその後の出火でほとんど壊滅した。僕も地震の時は島村先生と一目散に三四郎池に、それから不忍池方面に避難した。翌日戻ってみると、本郷は完全な廃墟になっていた。それで東大は代々木の練兵場へ移転が計画されたりもしたのだが、結局本郷に残ることになった。

とか

> 順天堂病院前の電停から外堀線に乗って東京駅へ向かう。路面電車はまず、神田川に架かる鉄骨トラス造りのお茶の水橋を渡り、明治大学や日本大学などが建ち並び、ニコライ堂がそびえ立つ駿河台界隈を抜ける。ギリシャ正教建築の尖塔とドームが見事だったニコライ堂は、その煉瓦造りの尖塔が倒壊してドームを破壊してしまって、未だに修復中である。

> 震災復興事業として、ニコライ堂と湯島聖堂の間に新たに橋を架けて、上野から神田橋を通り丸の内まで大通りを通すことになった。帝都の大動脈となる予定である。この橋の名前は公募で「聖橋」と決まったのだが、それは儒教とギリシャ正教の聖堂が両岸にあるからなのだった。

とか

> 東大本郷キャンパスもやはり、化学薬品室から出火して、図書館を類焼してしまったのだよ。

などといろいろ調べて書いたのだが、
その図書館の玄関が今発掘工事されていて、非常に感慨深かった。
このままだとちとアレだがお蔵入りにするのももったいない気がするので、
そのうち使いまわすかもしれない。
大正時代というのは割合面白い素材なのでもっと書きたいのだが。
いろいろアイディアだけはあるのだが、
歴史小説はお膳立てが非常に大変で。
下手なことは書けないからなあ。

>「宮内さん、やはり、あなたは本を読むのが好きで、近視になってしまったのでしょうね。」

>「ええそうね。私、尋常小学校に上がるときの身体検査で、いきなりひっかかってしまったの。親は慌てて眼科に連れて行き、さっそく眼鏡をこしらえて、それからはずっと眼鏡っ子。「メガネザル」とみんなによく馬鹿にされたわ。みんなが外の明るいところで遊んでいるとき、暗い屋内で、かまわず本を読んでいたのがいけなかったのね。

> でも、私はずっと、師範学校の頃も本の虫でした。お茶の水に居たころも、東京大学図書館には七十六万冊の蔵書があるというので、学校に届け出して、本郷によく通ったものです。ところが本郷の図書館も、震災で一万冊を残して焼けてしまいました。明大・日大・中央大・専修大・お茶大・東大などの大学の学生街として発展してきた神保町の古書店街も全焼して、何百万冊という本が、文字通り灰燼に帰してしまいました。実にもったいないことでした。

> 今仮に設営されている大学図書館には、日本中の図書館から蔵書を分けてもらったり、新たに購入したりして、もう十万冊まで増えましたけど。なにしろ建物がバラックなので、もうこれ以上は入りません。

> ところが、今建造が予定されていて、三年後に完成する新図書館棟は、地下一階、地上三階、中央部は五階建て。鉄骨鉄筋コンクリート造り。世界三十カ国以上から図書の寄贈を受けて、一挙に五十五万冊にまで、蔵書が回復するんですって。さらに百万冊くらいは余裕で収蔵可能だそうですよ。なんだかわくわくしてくるわね。」

いやはや。
久しぶりに読むと懐かしい。

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銀杏並木も安田講堂と一緒に植えられ、整備されたものらしい。
この切り株は福武ホールというものを建てるため、並木の一部を伐採した残りのようであるが、
それから新芽が出ていて、
感慨深い。
これまた震災の記憶なのだ。

しかしこの夏至の季節が近づくと日差しが強くて写真を撮るのが楽しいよね。


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