安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

> 安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

> 安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
> 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。
聖武天皇の時代。
ほかにも、古今集に

> みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。
芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

> みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。
安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

> みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

> みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。
「反る」は「せる」。
安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、
聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。
白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、
安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。
このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。
将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。
光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、
実景を詠む人はいなくなってしまった。
いたとしても頼朝くらいだが、
頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。
佐藤は藤原氏である。
関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、
秀郷は下野の人である。
下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、
白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、
と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。
それとも何かの仕事か。
二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。
しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、
頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。
頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。
結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、
頼朝はよく彼を通したと思う。
西行は明らかに頼朝の敵である。
西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

> 美み知ち乃の久く能の 安あ太だ多た良ら末ま由ゆ美み 波は自じ伎き於お伎き弖て 西せ良ら思し
馬め伎き那な婆ば 都つ良ら波は可か馬め可か毛も

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、
あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。
安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。
「めかも」は反実仮想だわな。

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