対句と対聯

聯という字が我々にほとんどなじみがないように対聯という概念も日本人には希薄だと思う。
対聯は五言排律のような比較的長い漢詩にのみ使われる用語であり、
律詩や絶句くらいしか親しみがない日本人にはよくわからん世界である。

対聯は二句だけでも成立し、中国では今も門の左右に掲げたりする。

八股文の股というのも聯であり、
すなわち八股文とは四つの対聯を胴体とする文章というのに他ならない。
対聯が三つの六股文というのもあり得る。

八股文には頭と尾がついている。五言排律とまったく同型である。
このことについては「帝都春暦」に詳しく書いておいた。
八股文と五言排律のアナロジーに気づいたのが私が初めてだとはとても思えない。
中国の文学会ではすでに定説なのかもしれぬ。

対句というのは二字でも時には一字でも成り立つものだが、
対聯はたいてい五字、さもなければ七字とか八字などである。

このように対聯というものは中国文芸には非常にポピュラーなものだが、
日本文芸ではほとんど発達してないと言って良いと思う。
古今集仮名序の
「人の心を種「よろづの言の葉」とか、
「花に鳴くうぐひす」「水に住むかはづ」とか、
「力をも入れずして天地を動かし」「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とか、
「男女のなかをもやはらげ」「猛きもののふの心をもなぐさむ」
は典型的な対句だが、
これはおそらくは真名序の
「託其根於心地」「発其華於詞林」とか
「動天地」「感鬼神」「化人倫」和夫婦」が原型であろうと思われるのである。
当時の人々には文芸を論ずる言葉がなく、漢文を参考にするしかなかったと思う。

しかるに後世になると、
連歌というものが流行りだして、一つの歌が上の句(発句)と下の句(付句)に分かれた。
これはある意味非対称な対聯と呼び得るものであるかもしれない。
さらに発句は三つの句でできているから、
音楽に二拍子と三拍子があるように、
俳句はある種対句を発展させたワルツ形式の句構成であるかもしれない。
そう考えると俳句の意義というものがわかった気がするのである。

日本人は、干支や陰陽五行説のようなものを、外来思想として受け入れつつも、
そういう完全なシンメトリーというものを忌避する傾向があると思う。
七五調のような非対称なものが逆に安定すると考えている。
阿吽の形相なんかも対称の中にも非対称をもたせている。
右近の桜、左近の橘なんかもそうかもしれん。
夫婦岩も非対称だ。

日本人の場合はそれをさらに発展させて、
生け花でいうところの天地人とか真留体などの非対称な三角関係を安定していると考える。
同じことは庭石の配置にも言えるし、俳句の句の配置にも言える。
これは決して完全に等辺な正三角形のようなものを言うのではない。
キリスト教における三位一体説とはよく似ているがまったく別種の発想から来るものだ。
日本人はシンメトリーとかトリニティーというものを意図的に排除する傾向がある。

和歌というものは、近世の日本人好みの非対称三角関係というものにはおさまらぬ。
形も無くぐにゃっとしたものだ。
正岡子規は最後までそれが理解できなかった。

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