ホワイトカラーの論理

戦後の終身雇用は実質的に労働市場を否定する形になった。
労働市場も市場の一つである以上その需要と供給の均衡、
労働者の流動性を無視することは資本主義の否定であり、
一種の社会主義である。

日本全体が終身雇用に傾いたのは国鉄のせいだろう。
国鉄は失業者を積極的に抱え込んだ。
たまたま高度経済成長で余剰人員を抱え込んでいてもうまく回していけた。
それを松下などの民間企業もまねしてやはりそれなりの成果をあげた。
大学もではと終身雇用向けの人材をどんどん大量に送り出すことになる。

終身雇用はもともとは戦後の復興、雇用対策、失業対策、
民間企業による自発的な社会保障、福利厚生の充実という善意から出発したものだった。
また、民間企業が転職というものをいやがったということもあるだろう。
渡り職人のようにソニーから松下、松下から東芝へと技術者が転職するのをホワイトカラーがいやがったのではないか。
つまり技術者の囲い込みという側面があったはずだ。

技術者はどちらかと言えば一つの会社に縛られたくない傾向がある。
転職したがる。できれば自立したがる、という意味では経営者に似ている。
安定した職に雇われ、自ら拘束されることを求めるホワイトカラーとはそこが違う。
技術立国である日本には本来終身雇用は向かない。
しかし文系学部はコストがかからないからホワイトカラーをやたらと育てた。
終身雇用とホワイトカラーはセット。
それが技術者を飼い慣らし、搾取し、技術立国日本の力を奪っていった。
終身雇用は日本を支えるエンジニアたちの犠牲の上になりたっていた。
そしてエンジニアたちはどんどんふぬけになっていった。
ホワイトカラーの魂に毒されたのである。

大学は、学生がよい会社に就職することに最適化するものである。
大学が社会に対して超然としていて学問をやるところだというのは幻想だ。
そして卒業した学生がどのようなキャリアパスを経て最終的にどのようなポストに落ち着くかをトレースするのは大学としてはめんどうだ。
新卒でどこに就職するかというところばかりに目がいく。
そこへ終身雇用。
非常に相性がよろしい。
労働市場は新卒の学生にだけ存在することになった。
それが当たり前で誰も疑問に思わなくなった。
日本にしかないものだから変だとは思わない。
日本独自のすばらしい制度だと思うようになった。
バブルの前まではそれでよかった。
別に終身雇用制度というものがあるわけでなく、
能力ではなく、長く勤めれば勤めるほどに生涯賃金が有利であれば実質的に終身雇用となる。

能力給とか、成果主義というが、
終身雇用の場合はつまり上司が部下を評価するということにほかならないから、
どうしても私情主義となり、温情主義となり、能力とは関係なくなる。
自分の能力を正当に評価してくれるところに転職することこそ本当の評価であり、
ほんとうの能力給である。
そのためには労働市場が流動的でなくてはならない。

終身雇用では、
ある一定期間会社にいることによって自動的に昇進する。
これまた能力の否定である。
日本社会は村社会で出る杭は打たれるなどと言うが、常にそうであったわけではない。
ホワイトカラーに都合のよい過去の事例が掘り起こされているにすぎない。

労働市場が流動的ならば大学に入り直したり、専門学校に通ったりすることもできる。
大学も高卒の託児所ではなくて実践的な教育を行う場になり得る。
実際高卒を四年間預かって社会人にすることは不可能だと思う。
最近では大学に通いながら、或いは卒業してから専門学校に通うらしい。
これすなわち戦後リベラルアーツ教育の否定ではないのか。
大学も需要に応えるべきなのではないのか。
そもそも大学とは何なのか。

大学四年間は授業に出るよりも美術館巡りをしたり映画をみたり海外旅行したりするのが良いという人もいる。
そんな時間をやりくりする能力があるならしたらよい。
四年間はあっという間に過ぎる。
大学は人脈と一般教養だけ身に付ければよいというのはホワイトカラーの理屈である。
たまたま今の世の中ホワイトカラーが多数派であるというだけだ。
世の中はホワイトカラーだけが支えているのではない。

今一部の業種が人材不足なのに賃金が伸び悩んでいるのは労働市場のせいだ。
労働市場が健全ならば人材不足つまり需要があるのに供給が不足していれば賃金が上がる。
これによって需要と供給が均衡する。
賃金が伸びないのは今の企業が多くのホワイトカラーを正社員として抱え込んでいるからだ。
日本企業は外資系に比べてはるかに多くのホワイトカラーを雇用している。
いまや会社はホワイトカラーをリストラしたくてうずうずしている。
ホワイトカラーは余っていてゆえに賃金を押し下げている。
労働市場に人材がうまく配分されてないから賃金が伸びないのだ。

今の政権のせいではない。
ずっと昔からの積み重ねで日本社会がそうなってしまっているのだ。

終身雇用会社の場合部下が付くと上司が部下の「先生」となる。
そして先生と呼ばれることをよろこぶ。
俺は出世した。偉くなった。先生と呼ばれる身分になった、と。
彼は「プロの教員」ではない。
「プロの教員」は「先生」と呼ばれることを嫌う。
教員が仕事なんだからプライベートまで教育のことなど考えたくない。
ましてプライベートで先生なんて呼ばれたくない。
身内や会社の部下なんかに呼ばれたくない。
「先生」と呼ばれて喜ぶのは一般人だけだ。
そういう素人どうしのなれ合いの世界というのがホワイトカラーの社会だ。

大学も少子化対策のために社会人教育をやろうとしているが、
まったく人が集まらないそうだ。
世の中がまだ終身雇用の論理で動いているからだ。
大学が長期的視点に立って生き残ろうと思うなら、
コストのかからない文系学部を新設するなど論外。
留学生を大量に受け入れるのも対処療法。
社会人に学部や大学院を開放して専門教育を施すしかないと思う。
社会全体が変わっていかなくてはならないときが来ている。
しかしそういう議論はいっこうに進まない。

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