岩佐美代子

※もう少しリライトする必要があるとは思いますが、
趣旨はだいたいこんなかんじです。

後醍醐天皇が統幕に失敗して隠岐の島に流されると、
光厳天皇が即位した(1331)。
このときはまだ鎌倉幕府が存続していて、三種の神器もあり、皇太子にも立てられていたので、
光厳天皇の即位には特に問題がない。
光厳天皇を正統な歴代天皇の一人に数えないほうがおかしいと思う。

ところが幕府が倒れて北条氏が亡び(完全に血脈が絶えたわけではない)、建武の新政が始まる(1333)と、
北条氏の後ろ盾を失った光厳天皇は廃位され、後醍醐が復位する。
光厳天皇は即位していなかったことにされてしまい、後醍醐も重祚したのでなくて、
ずっと天皇だったことになってしまうが、これもかなりまずい解釈だと思う(しかし小一条院の前例がある)。

建武の新政が失敗して後醍醐が吉野に移り尊氏が京都に入ると、
光厳院は弟を立てて光明天皇とする。
このとき京都に三種の神器があったかなかったかよくわからないのだが、
後鳥羽天皇の即位にも三種の神器はなく、
上皇の院宣だけで即位したわけで、特に問題とは言えない。
このとき後醍醐天皇と光明天皇の二人の天皇がいたわけで、南朝と北朝ができたのは光明天皇からなんだが、
どちらにも正統性がある。
同じことは後鳥羽天皇と安徳天皇のときにも言える。どちらにも正統性があるとしか言いようがない。
その次の崇光天皇にも正統性に問題はない。

しかし後光厳天皇の即位は上皇の院宣もなく三種の神器もなく、
継体天皇の前例に倣うというまったく根拠のない理由で尊氏が即位させたものであり、
その次の後円融天皇とともに、正統性がない、というのが私の解釈である。
しかしさらにその次の後小松天皇は義満によって南北朝が合一したのちの在位期間には正統性がある。

南朝の後醍醐、後村上、長慶、後亀山天皇には正統性がある。

とまあ私の解釈ではこんな具合なのだが、
岩佐美代子の専門は玉葉和歌集と風雅和歌集であって、
このうち特に風雅集は光厳院が親撰した(1346)のだが、
このとき北朝は光明天皇、南朝は後村上天皇。
なので彼女は南北朝というややこしい時代に巻き込まれてしまう。

明治に「南朝だけが正統」とされて、光厳天皇が北朝とされ、
光明、崇光天皇の正統性まで否定されてしまったのは不幸なことであった。
だからと言って北朝のほうが正統だという主張はおかしいと思う。
というかそこで議論するのは不毛だと思う。
どっちの主張も同じくらいにおかしいから議論自体ナンセンスだ。

風雅集が無視されてきたのは、北朝の歌集だったからではない。
足利氏にとっては北朝の方が正統なわけだし、
足利幕府を継承する形の徳川幕府もまた北朝を正統だと思っていただろう。
少なくとも江戸時代初期までは、風雅集が北朝だからという理由で排除されたはずがない。
しかし江戸初期までに京極派は完全に廃れてしまっていた。
だから玉葉集も風雅集も、ほとんど無視されたのである。

南朝にも京極派以上に京極派的な歌人はいた。
後醍醐天皇や後村上天皇がまさにそういう歌人だった。
後鳥羽院はよくよく見れば単なる秀才であり、後醍醐天皇には及ばない。
後村上天皇は明らかに天才である。
岩佐美代子が後村上天皇の歌に一切言及していないのは惜しい。

前衛的・実験的・革新的な和歌というものは、いわゆる二条派とくくられる歌人の中にもいたわけである。
どちらかと言えば京極派のほうがより前衛的だったというにすぎない。
二条派と言われる正徹や細川幽斎もどちらかと言えば革新的で、京極派に近い。
京極派にも二条派にもマンネリズムに抵抗した歌人はいたのだ。

京極派からも、二条派からも、前衛は失われ、保守化していったのは、
やはり足利幕府の責任である。
足利将軍は和歌が大好きなので、
将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという勅撰集の量産体制が整った。
そしてこの三位一体の勅撰集量産体制こそが、和歌の独創性や創造性を殺してしまったのである。
足利将軍家は和歌音痴でもあった。
藤原氏も天皇家も足利に取り込まれてどんどん凡庸になっていく。
そして、応仁の乱によって足利将軍の権威が失われ勅撰集も編まれなくなると、
正徹のような個性的な歌人が生まれてくるのである。
尊氏から義政まではもっとも勅撰集が量産されたが、和歌の暗黒時代だった。

足利幕府は北朝側ではないか。
南北朝が合一した後もずっと京極派の歌集を作ればよかったではないか。
でもそうしなかった。
足利氏は歌が大好きだったが歌を詠む才能がなかった。
才能がないものに京極派の歌は詠めぬ。
天才でなくては京極派の歌は詠めぬ。
為氏・為世、頓阿あたりの、つまらぬ歌を量産した。
たまたま為氏・為世が二条家の血筋だったので二条派と呼ばれたのだが、
ようするに凡夫の歌が二条派ということになってしまった。
ただそれだけなのだ。
香川景樹などはかなり京極派に近い。

わかりやすい例をあげると、俵万智の歌は、結局は俵万智にしか詠めなかった。
俵万智をまねした凡百の歌人たちの歌はただ現代語で歌を詠んだというだけ。
ただそれだけでは優れた歌にはならない。
京極為兼もまた俵万智と同じ。
凡人は形式を踏んだ方が良い歌が詠める。

玉葉・風雅集が北朝なので無視されたというのはまったくの被害妄想だ。少なくとも江戸時代までは。
明治・大正・昭和期には、たまたまそうであったかもしれない。
宣長が京極派を嫌っていた理由はもしかすると京極派が北朝だったからかもしれない。

古今、新古今と来て、和歌から次第に即興性や写実性が失われ、形式的な堂上和歌となっていく過程で、
玉葉・風雅は異質すぎた。
凡人にはまねできないのだ。
凡人は参考書を読まなければ歌は詠めないのだ。
尊氏は北朝だから、京極派の歌を詠まねばならなかったはずだ。
しかし尊氏には二条派的なつまらぬ小心翼々とした歌しか詠めなかった。
歌を自分で詠んでみたらわかる。
京極為兼みたいな歌を詠むにはそうとうな自信と才能が必要だ。
才能というより霊感。
理屈ではない。
ほんとうに良い歌は理屈で説明できないところから生まれる。
尊氏はおそらく理屈でしか歌を詠めない人だった。
おそらく歌の才能はまったくないが歌が好きで好きで仕方なかった尊氏には為兼のまねは不可能だった。
尊氏の子孫たちも彼にならっただろう。

岩佐美代子の理論では、
後醍醐天皇や後村上天皇が京極派的であり、尊氏以下の足利氏が二条派的なのはなぜかということを説明できまい。

いずれにせよ北朝だけが正統だ、という主張も、南朝だけが正統だ、という主張と同じくらいに間違っていると思う。

岩佐美代子という人も自分では和歌を詠まぬ人だったらしい。
彼女の父などは良く歌を詠んでいたようだが。

彼女は永福門院の歌が好きらしい。
例として挙げてある歌はたしかにすべてすばらしい。
岩佐美代子が「木々の心花の心」で主張していることはまことにもっともである。
定家だって貫之だって俊頼だって京極派的な歌は確かに詠んでいるのである。
どんな二条派的な歌人だってひとつや二つは京極派的な歌は詠んでいるはずだ。
俊成や西行や実朝や為家を京極派的ということもできる。
尊氏は全然京極派的ではない。
それを見分ける能力は岩佐美代子にはあると思う。
ただ私は永福門院よりかは京極為兼の歌にひかれる。
やはり岩佐美代子は女であり、私は男だからだろうと思う。

玉葉集は為兼が、風雅集は光厳院が選んだのだが、
玉葉集はプロの歌人が選んだので風雅集よりもずっとできがよい、
などと言っているのは面白い。
伏見院もそんなほめてない。そりゃそうだろう。
まあ、まともなのは為兼と永福門院くらいであとの京極派の歌人にそんな影響力のある人はいない。
だから自然と衰退してしまったのは仕方ないだろう?

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