近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。
単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、
詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき
悠悠として官路の浮沈に仕ふ
此の身に更に苦有りて辛在らんと
飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。
文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。
「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し
自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり
なほ一般の優劣の処あり
鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。
私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士
一志を手に伝へ洛陽に入る
昼夜の兵談何事かなさん
攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。
「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。
「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと
今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと
回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん
来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。
「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。
野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。
それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。
神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。
かるがるしく和親を結ぶな。
「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり
之を取りて失無ければ果して英雄
英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも
赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。
すべての行いは、孝と忠に依る。
これらを守って過失がない者が英雄である。
たとえ私は英雄ではないとしても、
真心をもって外敵を払いたい。
「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん
喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん
果して英雄の心上の事を識らば
英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。
いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる
顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。
雎陽は文天祥の「正気歌」による。
安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、
頼山陽が見たらきっと感心しただろう。
幕末明治の詩人の中でも一流。
昭和の中島敦などは遠く及ばない。
永井荷風もかなわないのではないか。

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