古きを慕う

和歌は外来語や漢語に対して排他的であるというが、
実は大和言葉自体に対しても同様だ。
はるさめ、とは言うが、あきさめ、こさめ、きりさめ、などは和歌には使われない。
これらの語が俳句や都々逸に使われるのはまったく問題ないことだ。
なつさめ、ふゆさめなどはそもそもそういう言葉がない。
そのかわり、さみだれ、しぐれなどという言葉がある。
なぜそうなっているかと言っても理由はないのだ。

法律が判例の積み重ねでできているように、
和歌は誰かが急に新しい言葉を作ってもしっくりこない。
和歌が古きを慕うというのは法律の判例主義と同じで、
何百年もかけて少しずつ変わっていくのは良いが、
急激に変えてはいけないといっているのである。
古いものを墨守していても死んでしまう。
その加減が難しい。

明治の人たちはしかし新語や造語をやたらと作った。
和歌にもそれを強要した。破壊的、革命的な変化が許されると信じた。
信じなければ明治維新なんてやってられなかっただろう。
根拠として万葉時代の歌が持ち出された。
万葉の歌は前例主義から自由だったと言いたいのだ。

さみだれをなつさめとかゆふだちと言い換え、しぐれをふゆさめと言い換えることに抵抗がない人はそうすれば良い。
俳句や現代短歌がどうなろうと私は知ったことではない。
私は千年前と互換性のある歌が詠みたい。
いや、違うな、ある時代にしか通用しないような価値観にはしばられたくない、というべきか。
だから私は自分では和歌しか詠まないし、
自分の歌は和歌としか言わない。

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