父の歌など

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

> はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。
彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、
秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

> 奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、
人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

> 夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

> 山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

> 私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

> ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

> 後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

> その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。
柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。
落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。
柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

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