昔の(公家の)女性はいきなり(高貴な)殿方から恋歌を詠みかけられたときのために、
即興で気の利いた歌を詠み返すために日々修業しなくてはならなかったと柳田国男が書いていたのだが、
いかにも桂園派の歌人の生き残りの彼が言いそうなことだが、
「とはずがたり」を読んでると実際そんな需要はあったんだろうなあと思えてくる。

普段の歌会で、題詠でつまらない、心のこもってない、そらぞらしい恋歌を量産するのは、
いざというときのためのウォーミングアップに過ぎない。
多くの女性はふつう真剣な恋愛やどろどろの不倫など無縁の一生を送る。
仮にどろどろな男女の恋歌のやりとりがあったとしても、
そういうものは他人には見せなかっただろうし、
また江戸中期以降はそういうこともかなり下火になっていたように思う。
細川幽斎や松永貞徳の頃の恋歌にはまだリアリティが残っていた。

毎日ジョギングしたり水泳したりするようなことが昔の人の(日常の)詠歌であり、
そういう訓練を日々欠かさず行う人のことを歌人と言った。
決して今の「ポエマー」のことを「歌人」と言ったのではない。
昔の女性は、ある意味、昼メロを見るだけでなく、恋歌を実作することによって、昼メロを仮想体験していたのかもしれない。

「とはずがたり」の頃の宮中というのは、後嵯峨院がいて、新院(後深草院)がいて、
天皇(亀山天皇、後深草院の実母弟)と皇太子(亀山天皇の皇子世仁、後の後宇多天皇)がいた。
本来なら後深草院の皇子熈仁(後の伏見天皇)が即位するか、皇太子になるべきであったが、
熈仁は洞院氏の子、世仁は西園寺氏の子。
洞院は西園寺の分家に当たるので、
世仁が皇位を継承するべきである、熈仁には皇位は継がせないという判断が当初はあったと思われる。
「とはずがたり」の女主人公は後深草院の女房になる(後深草院二条と呼ばれる)のだが、
後嵯峨院が崩御し、続いて父が死去すると、
後深草院と亀山院と西園寺の間でふらふらと翻弄される存在になる。

後深草院の女房になったのに西園寺実兼から求愛されて

> 知られじな 思ひ乱れて ゆふけぶり なびきもやらぬ 下の心は

などと歌を返し「こはなにごとぞと我ながら覚え侍りき」などと言ってみたり、
実兼から関係を迫られて

> 帰るさの たもとは知らず おもかげは 袖の涙に ありあけのそら

などと返歌を詠んで送ったりしている。
これらの歌だが、決して秀でた歌ではないものの(あなたのおもかげは私の袖の涙にあります、と有明の空をかけただじゃれ)、きちんと整っているし、
皇室を巻き込んだ、実際の不倫の際に詠まれた歌として見るとき、すごみがある
(仮に、実兼の子が後深草の実子として即位してたらシャレにならなかった)。

これらの歌から見ても、
後深草院二条の意中の人は後深草院ではなくて実兼であることがわかるのである。
必然的に「とはずがたり」は鎌倉・室町期に宮中にご奉公にあがる娘たちが身の処し方、歌の詠み方の事例研究をするために必ず読まされる書となったし、
21代集の恋歌はその果てしない再生産だった。
そしてその雰囲気がずっと後の江戸期まで、
深窓の淑女達にも恋歌の訓練をさせることになったのだろう。

嵯峨中院は西園寺から後嵯峨院に寄進されて、
さらに亀山院に相続され、亀山殿と呼ばれるようになる
(のちに尊氏が大覚寺統の菩提寺天龍寺とする)。
亀山殿はもともとは大宮院(西園寺姞子。後深草、亀山両院の生母)の御所であった。
亀山院と後深草院は別々の御所に住んでいて、時折り互いに行幸があり、宴があり、
勝負事があった、ということが、
「とはずがたり」には書かれていてこれまた面白い。

ところでウィキペディアには

> 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。

とか

> 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。

などと書かれているのだが、本気でこんなことを信じているのだろうか。
日本史というのはなんでこんなにいつまでたってもアホなのだろうか。
後嵯峨院の遺志、というか、西園寺の意志は、世仁親王を皇太子としたことで明白ではないか。
大宮院にとって後深草も亀山も我が子であるからどちらも同じに可愛いのに違いない。
どちらかを憎んでいたとか、どちらかが嫌われていたというようなことは(少なくとも「とはずがたり」の中では)感じられない。
同母兄弟どうし、両方即位させたのは、皇統を西園寺で固めるためだったのだが、後深草に西園寺の皇子が生まれず、
亀山に生まれたのだから、その皇子を即位させようとした。
この時代は関東申次西園寺絶対なのだからその線で判断すればよい。
「治天の君ガー」とかバカの一つ覚えで言うまでもない。
ウィキペディアは「治天厨」に汚染されていていらいらする。
たぶん吉川英治辺りが悪い。

それで後嵯峨院が崩御すると今度は後深草院が一院、本院となる。
本院は一応皇族の代表者なので、本院が自分の皇子を即位させたいと言えばなかなか反対は出来ない。
少なくとも西園寺は反論できないし、弟の新院(亀山院)もダメとは言えない。
戦時ならばともかく平時に北条氏も口出しはできない。
となると後嵯峨院が一応決めておいた、亀山・後宇多のラインはいったん棚上げになって、
後深草皇子の伏見が即位してしまう。
両統迭立の責任は誰かという問題では、西園寺が悪いとも、後深草が悪いともいえるが、
どちらもやむをえない理由はあった。
弟に譲位する例は今までなんどもあって、それがただちに悪いとも言えない。

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