亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

小説の体裁

07.22.2016 · Posted in 小説

twitter の自己紹介に「小説のようなもの」をKDPで出版してます、 などと書いてたのだが、 こんど出す「エウメネス2」と「エウメネス3」に関しては、 自分の作品ながら「小説のようなもの」呼ばわりするのは変な気がした。 失礼な気もする。 それで若干自己紹介を書き換えたのだが、 なんでそう思ったかと自己分析してみた。

「エウメネス1」はもともとは私が勝手に書いた「小説のようなもの」なのだが、 これはけっこう売れたので、 お金を払ってくれた人に対して失礼な気がする。 お金を払って買ってくれた人はこれを「小説のようなもの」ではなくて 「小説」という商品として買ってくれたわけである。

つまり、ものを売るということはそういうことなわけで、 自分のものだからといってむやみに卑下してはならない気がする。

「エウメネス2」と「エウメネス3」は初めて予約注文でやったが、 予約者も(そんな多くはないが)いて、 書いている最中から、読者、というより、買ってくれる人、を意識して書いた気がする。 「エウメネス1」を買ってくれた人にまた買って貰いたいという気持ちで書いた。 もっと言えば、夏目書房新社で紙の本を出版してもらい著者紹介にも少し書いてもらった(その紹介文は非常に恥ずかしいものだったが。CiNii にまで載ってしまった。なおさら恥ずかしい)。 ちょこっとだが編集会議のようなこともしたので、私が独断で出版して良いものではない (だが、続編をちょっと書き足すというつもりで、独断で書かせてもらった。完結させたのではない。 完結させるとしたら全部で1000枚では済まないだろう。 もし今回の続編が売れたらも一度、改めて相談してみるつもりだ)。 いろんな人の意見も聞いた。 だからもうこれは「小説のようなもの」ではあり得ないのである。 「プロ意識」と言えばそうなのだろう。

で、私の場合昔からそうだったのだが、100枚のつもりで書いて、 最初の書き終わりは80枚くらいだが、手直ししていくうちに100枚になる。 しかしその後いろいろ書き足したり肉付けしたりする。 歴史小説の場合特にそうなりやすい。 文章そもそもの磨いていく。 そういう書き方を5年くらい続けてきたので、 私はそういう書き方をする人間なんだなってことがわかってきた。

最初にプロットなりノートなりを書いて書くときは一気に書く人もいるが、 私はそうではなく、ひな形みたいな作品をまず書き上げて、それから肉付けしていく人なんだな、 ってことを書きながら気付いた。

むろん、小説自体のできもこれまでよりは良いつもりだ。 良い、というより「小説」としての体裁を具えている、という感じかな。 良いものを書いた自信、というのとも少し違う。 小説としての体裁を考えずにがーっと書いてたころの作品のほうが良いかもしれない。 でも今はもうそんな純粋な気持ちでは書けない。 長編だと特にそうだ。 どうやって読者に読み続けさせようかみたいなことを考えながら書く。 自分が何を書きたいかということよりもそちらのほうが書いてて気になる。 たとえて言えばピタゴラ装置を作っている気分。 あーここで玉が止まっちゃうとか、ここで読者読むのやめちゃうよなとか、 いつの間にかそんなことばっかり気にしてる。 まあしかし、それが小説の体裁というものなのではないか。 最初は自分しか読者がいなかった。 世の中に自分が読みたい本がなくなったので自分で書くことにした。 自分のために書いたから自分で読めば面白いに決まっているのだが、 他人が読んでも面白いほうがよいに決まっている。 ただ他人が読んで面白いものというのは、私が飽きてしまって読まなくなったようなものなので、 そこの折り合いをどうつけるか。 自分にとっては面白くもなんともないが、 他人には喜んでもらえるピタゴラ装置を延々と作ってもむなしいだけだ。

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