世界から猫が消えたなら

どういう本が人によく読まれるのかということを知るために読んでみたのだけど、まあこのくらいあざとくないといけないんだろうなと思った。

悪魔と契約して「猫を消せなくて自分が消える」という、基本的なコンセプトはこれだけで、コンセプトがシンプルだというのも売れる本にとっては良いことなのだろう。ものごとは単純化したほうがよいこともある。

そして、飼い猫を消せなくて自分が消えることにしたということに、共感できる人には面白い本で、
それ以外の読者は捨ててる潔さもよい。

文体は、よくわからんのだが、これが村上春樹風というのだろうか。「文章が稚拙」というレビューもあったがそれは違うだろうと思う。「稚拙」にみせるテクニックはあるかもしれない。「あれ、これなら自分にも書けるんじゃないかな」と読者に思わせるくらいが親近感があって良いのかもしれない。中島敦とは正反対な戦略と言える。

神や悪魔については、これもこのくらいシンプルなほうが一般受けするのだろうが、私には絶対受け入れられないものだ。完全にステレオタイプ化され、ブラックボックス化されていて、そういうものだというのが前提で話が構築されているが、そうね、私の書くものはまず、そのブラックボックスを壊して開いてみるところから始まる。なので、こういう話の展開には決してならない。

猫がかわいい。家族や恋人は大事。友情は大切で、戦争は悪いこと。ここをまず疑い否定するところから近代文学は始まるのではないか(?)というのはたぶん私の思い込みなのだろう。前提がまず違っている。これを「感動的、人生哲学エンタテインメント」とうたっているところがもう不倶戴天な感じがする。

まともかくこういうのを喜んで読む読者というのがいて、そういう読者に本を買って読ませる業界というものがあるというのはなんとなく理解した。私が抱いていた「売れる本」というものに対する漠然とした疑問と不安を、明確に突きつけてくれた本、と言える。そう。こういう本を、私は書いてはいけない。というより、こういう本を否定するために、私は本を書かなくてはいけない。

さらに余計なことを書くと、この本の著者は、「「文系はこれから何をしたらいいのか?」この本は、理系コンプレックスを抱える文系男が、2年間にわたり理系のトップランナーたちと対話し続け、目から鱗を何枚も落としながら、視界を大きく開かせていった記録だ。」 というコンセプトで 『理系に学ぶ。』という本を書いているのだが、 この人は文系でも理系でもない。学問とは無縁な世界の人だと思う。学問と無縁な人を文系というのならアリかもしれないが。

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