宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。
しかし伊勢神宮では檀家という。
この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。
『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。
寺は一つの村や町に複数あることがあって、
徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。
いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、
神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。
神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。
神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。
はたしてそうなのか。
明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。
冠婚葬祭ができない。これは困る。
その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。
明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。
今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、
宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。
漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

> ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、
和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。
まだ契沖には出会っていない。
和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。
和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。
それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。
しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。
和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、
そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、
山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。
墓を二つ作った。
それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。
神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。

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