日本人が知らない村上春樹

何が言いたいのかさっぱりわからない本だ。
ましかし、少しだけ面白い箇所もあるから引用してみる。
日本在住のスイス人の作家が書いた文章。

> 複雑だったり、抽象的だったりする。新たな文体の冒険も随所に見られる。しかし本質的にはやはりなじみやすいし、感情移入しやすいし。全編でないにせよ、また錯覚と分かっても、誰にでもある程度まねできる日本語だという感覚を抱かせる。

> アメリカ文学の影響をうけた村上の文体を翻訳調と見る人もいるらしい。しかし、25年ほど日本の小説を読みあさってきた僕はそう感じない。

> 彼の日本語が僕にとって理解しやすいのは決して翻訳調だからではない。翻訳調なら、文体の不自然さのためきっとかすかな混乱と違和感を覚えるだろう。・・・あくまで彼の日本語は、僕が昔から慣れ親しんできた芳しい日本文学の中にあり、唯一無二の旋律を奏でている。例えば今回の作品で言えば、こんな表現だ。

> 「吹く風の感触や、流れる水音や、雲間から差す光の気配や、季節の花の色合いも、以前とは違ったものとして感じられる」

> 平明な文体は決して平板な文体ではない。綿密に言葉を選び、その並べ方に工夫を凝らす村上は、平淡な文章から極めて洗練された言い回しまで、実に色彩豊かな日本語の世界を僕らに提示してくれる。

> 彼の小説世界は、誰にとっても分かりやすいものでは決してない。しかし心地よい音声の中を旅する読者は、それを読み解きたいとさらにページをめくる。

そうなのよね。
わかりにくいのだが、なじみやすい、自分にも真似できると錯覚させる文体。
もっといえば、何か難解な文学を理解したような気分にさせてくれる文体。
それは錯覚に過ぎないのだけど、そう読者に思わせることは著者にとって大きなメリットになる。
翻訳調というのは確かに一つの風味付けにすぎない。
上に引用された言い回しもまた、ごく普通の少女漫画にでてきてもおかしくない。
そこがまあ、グリム童話の、魔女が建てたお菓子の家のようなものだと言えなくもない。

次は別の人の文章

> ニューヨーク・タイムズの書評家であるジャネット・マズリンが、「1Q84」を「あきれた作品」と酷評した。自ら提示した問題への答えを示しておらず、登場人物の乳房のことばかり書くなどおかしな部分がある

そう。私にもそんなふうに思えるし、逆に、そんなふうなおかしな文章が好きな人が村上春樹を読むのだろう、としか言いようがない。

へんなたとえかもしれないが、PPAP は実にくだらないどうでも良い動画だが、
世界中の多くの人が視聴した。
村上春樹もそんなものなのではないか?

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