亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

07.10.2018 · Posted in 雑感

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。

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