亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

国体論と『保建大記』

08.14.2018 · Posted in 雑感

日本国体の研究 などというものを読んでいたのだが、 国体という言葉はイギリスには無いと英国大使のエリオット氏が言っていた、などと書かれていて、 実際、国体という言葉は江戸時代に入ってから栗山潜鋒が作った言葉なので、中国の古典にも無いし、インドにあるはずもないし、 ヨーロッパにあるはずもないのである。

それでこの著者は、趣意無しで出来た国には国体は無く、 趣意があって出来た国には国体がある、などと言っているのだが、 日本が出来たときに趣意なんかあったはずがない。 日本の建国がどういうものであったかは、神武天皇紀なんかからなんとなくわかるとしか言いようがない。 大陸から稲作文化なんかがわーっと日本に渡ってきて、狩猟採集社会が農耕社会になって、村が出来、国が出来ていった。 そんなふうになんとなく成り行きで出来た国であったはずだ。 世界中の国がそんなふうにしてできたように。 それがなぜかいつの間にか、日本だけが、世界にも稀な、何千年も王朝が途切れなく続く唯一の国になった。 なんでそんなことが日本でだけ起きたのだろう、という疑問から、国体という概念が出来たのだ。 そしてその問題意識を最初に抱いたのが栗山潜鋒だった。

多くの人は、日本は島国だから、たまたまうまいぐあいにそんなふうになったのだ、と思っている。 確かに偶然の要素は大きい。 室町時代なんていつ天皇家が絶えてもおかしくなかったわけだし。 でもその後四百年も天皇家は続いたし、今後もどのくらい続くかわからない。 じゃあなんで続くの?続くべくして続いているの?将来の日本のために私たちはどんなことを考えなきゃいけないの? と現代日本人の私たちにもいろいろな問題ができてくる。

とりあえず栗山潜鋒という人は先駆者だ。 彼は国体という言葉を単に「国内外に対する国の体面、体裁」「独立した一個の国としての尊厳」「主権国家としての独立性」というような意味で国体と言った。 単なる「お国柄」というような意味ではない。 栗山は、山鹿素行のような日本中心主義者ではない。 国と国の関係について言えば相対主義者である。 どの国も自分の国が中国である、というただそれだけの主張だ。

『保建大記』では、 国交のあり方、国としての尊厳、それが国体であり、これをきちんと国内外に示す、そうしないと国体を損ねる、栗山はそういうような言い方をしているに過ぎない。

『保建大記』はしかし、儒教では説明できない「日本独自の政体」がなぜ出来たのか、その独自性について初めて突き詰めて論じた書であったから、 「国体」とは自然と「日本独自の、万世一系の天皇中心の政体」という意味に使われるようになった。 そして『保建大記』そのものはあまりにも深く難しい論文だったので、次第に忘れられて国体という言葉だけが勝手に一人歩きし始めたのだ。

もちろん『神皇正統記』の著者北畠親房も、日本だけ王朝の交替や革命というものがなくて天照大神からずっと皇位継承が連綿と続いているのは不思議だ、ということには気付いていた。 最初にそのことを明確に記したのは親房だ。 だが親房は、摂家に代わって武家が台頭してきたが、再び天皇親政の時代が来るのじゃなかろうか、という楽観的観測を持っていた。

栗山潜鋒の時代には、摂家独裁から武家による幕府ができ、再び幕府ができ、三度幕府が出来た。 こうして完全に武家の世の中になったにも関わらず、なぜか皇統というものは太古から連続している。 つまり、国の政治の実権を握るものは(中国の王朝のように)交替していくが、皇統は連綿と続いている。 どうやら中国と日本では異なる原理に王権は基づいているらしい。 ただの偶然も三回も四回も続けば必然になる。 日本の王権は儒教の論理では説明が付かないのではないか。では日本独自の政体論が必要なのではないか。 こうして生まれたのが国体論なのだから、日本以外に国体という言葉があるはずがないのである。

徳川家康は天皇を大事にしようとか日本の君主は天皇だとか、そんなことは別に考えてもいなかっただろう。 死に物狂いで戦っていてたまたま最後まで勝ち抜いて、頼朝や尊氏にならって幕府を開いたというのにすぎない。 何か趣意があって幕府を開いたはずがない。 家康はいきあたりばったりにそれらしい幕府を作り、天皇にそれらしい待遇を与えたのにすぎない。 家康は足利ご一家の吉良家を高家という旗本の身分で残して珍重した。 家康にとって天皇家も高家も似たようなもんだ。

しかし松平定信くらいまでくると、今更ガチンコ勝負で諸侯を押さえつけて、国を治めようなんて考えているはずがない。 もうあんな実力主義の時代はこりごりだと思ってるはずだ。 天皇の権威を利用したほうが、武力を行使するよりずっと有利だ。 ならば利用しようということになる。 最初に国体という趣旨があったはずがない。 国を治めるのに何か趣旨が必要になったから国体ができた。 だから、松平定信は水戸学や宣長の「みよさし論」などを採り入れ、頼山陽にお墨付きを与えて、大政委任論というものを確立したのだ。 江戸時代の国体論というものはつまり大政委任論のことだ。 天照大神から天皇家に委任された国を治める権限を、天皇からさらに征夷大将軍に委任しているという構図。 大政委任論からは大政奉還論も同時に出てくる。 大政委任・大政奉還論というのはつまり中国の易姓革命理論に相当するのだ。

それでまあ、戦前戦中の国体論は、栗山潜鋒や松平定信や本居宣長や頼山陽の役割というのがよくわかってないので、非常に観念的な国体論になってしまっている。

本居宣長が松平定信に与えた影響は知られている以上に大きいはずだ。 国体論は北畠親房-栗山潜鋒-本居宣長-松平定信-頼山陽-水戸斉昭-吉田松陰というようなラインで出来ている。 その中で一番重要で難解なのが栗山潜鋒なのだが、 驚くべきことに栗山はかの『保建大記』をわずか18才で書いたのだ。 そしてわかったつもりでいた『保建大記』を改めて一字一字読んでいくと、実はまだ何もわかってなかったことに気付く。 それでまあ、『保建大記』をどうにかせんといかんと今は一生懸命読んでいるところだ。

栗山潜鋒という人があまり知られていないのは彼が重要でないからではない。 わかりにくいからだ。ほとんど誰も手を付けられないからだ。 頼山陽ですら普通の人は四苦八苦する。頼山陽は多少漢文に親しんだ人にはなんてことはない。 本居宣長だって別に難しいことは何も言ってない。 山崎闇斎だって荻生徂徠だって一通り読んでみたが別に難しいことは何も言ってない。 だが栗山潜鋒はめちゃくちゃ難しい。 いつまでたっても一般人に知られるはずがない。

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