応仁の乱

正直なところ、とてもわかりにくかった。
wikipediaなどを合わせ読んで初めて理解できた。
日本外史だけ読んで応仁の乱をわかる人はいないのではないか。
ある程度の予備知識があった上で読めばおもしろいかもしれんが。
かといっていきなりwikipediaの応仁の乱の説明を読んでも無味乾燥で頭に入らないだろう。

足利幕府は諸侯(守護大名。細川、山名、畠山ら)が大きな実権を持っていて、
すでに実質的に封建制度に突入していた。

将軍足利義政は政治に飽き、義視を還俗させて将軍職をゆずろうとしたが、
義政に世継ぎが生まれたので母親の日野富子が子供を将軍にしたくていろいろ画策した。

ときに、畠山家は家督争いでもめていた。
義政は畠山家の争いに気まぐれに介入し、罰したり許したりした。
義政は他家の介入を禁じ、当事者どうしの私闘として済ませようとしたが、
結局、細川勝元と山名宗全の代理戦争に発展し、義政と義視の対立にも絡み、京都から全国に戦乱が拡大した。

いくさは長期化し、細川勝元と山名宗全が二人とも年をとって死んだのでうやむやに終戦となった。
将軍が任命する守護大名から、勝手に実力で大名になる戦国大名に変質していった。

とかまあそのくらいの予備知識がないと読んでもわからんのではないか。
日本外史を読みながら登場人物の人間関係を図にしたりして理解できないことはないかもしれんが、
とてもたいへんな作業だと思う。

ていうか、日本外史を理解するということは、これだけたくさんの登場人物の人間関係を理解するということであり、
単に現代語訳すりゃ良いわけではないわけで、つまりはめんどくさい。

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