国意考

真淵が「にひまなび」と同じ頃に書いた[國意考](http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1765_kokuikou.htm)というものがあるが、
真淵の「大和魂」とはこの「国意」つまり「日本精神」というものを大和言葉に訳しただけのものではないか。
宣長がやった(と思われる)方法で、日本の古典の「大和魂」という用例からその意味を解釈したのではなく、
北畠親房や山鹿素行などに由来する当時の(反儒学的な)武家の思想から来たものだと思う。
なので、中世の「大和魂」の用例と相違があっても特に意に介さなかったのだろう。
「にひまなび」はその題名からしてできるだけ大和言葉で論じようとして、
用語も出来る限り大和言葉に翻訳しようと考えて、そのために「大和魂」という言葉を作り出したのではないか。
たまたま、それだけだったのではなかろうか。
とりあえず、wikipedia などの記述を参考にすれば、
当時は仏教や儒教が伝来する以前の、日本古来の思想や精神というものを、それらの影響を排除して、
できるだけ昔のままに再現し復活させることが国学の目的だと考えられていた。
江戸時代になって幕府によって儒学、特に朱子学が官学と位置づけられ、
急激に隆盛したことに対する心理的反発もあったのだろう。
そこで当然、仏教や儒教に対立する概念としての国意というものが理論武装のために用意され、確立されねばならない。
平安王朝というのはすでに仏教や儒教などによって古来の日本精神というものが変容し、廃れて衰えており、
参考にするに足りず、それらの影響を受けていない記紀万葉などから復元されねばならないというのが、真淵の考え方だったのではなかろうか。

小林秀雄は、「大和魂」という言葉を「発明」したのが真淵であるところまでは突き止めた。
しかし、宣長がやったような古文辞学的な方法をとらず、源氏物語に初出のこの「大和魂」という言葉を、
自分の都合の良いように、中世の用例を無視する形で使ったことを批判している。
しかし、それは現代人から見たときの結果論であり、
というか、「大和魂」の初出を源氏物語に見いだしたという方法論や論法自体が極めて戦後的であって、
当時の真淵にしてみると、
武家政権によって官学とされた朱子学に対抗するための国学というものを打ち立てるというのが緊急の課題であって
(それは古今集の選者となった紀貫之と似たような使命感だっただろう)、
そしてそれは儒学との対抗上、武士の精神としてふさわしい「高く直き」「ますらお」ぶりの「もののふ」というものが、
万葉時代からすでに日本古来の美風として存在しており、外来の学問の存在は不要だというような論法に傾かざるを得なかった。
宣長のような、非常な時間と努力を必要とするような方法は、あまりにも回りくどくて、取りえなかっただろうなと思う。
しかも宣長が至った、「大和魂」とは源氏物語や新古今集などに代表されるような「もののあはれを知る」的なものだという結論は、
国学のためには有害無益だと見えたに違いない。

wikipedia や今のネットの「大和魂」説はだいたい小林秀雄の「本居宣長」か、広辞苑に基づいている。
広辞苑の方が常に新しく改訂されているだけあってより正確だ。
だがおおむね、議論は小林秀雄時代で完結してしまっていて、それからたいして進んでない。
しかし、真淵がなぜ「大和魂」という造語を作ったかという考察が抜けているため、話は混乱してしまっている。
さらに、真淵と宣長の立場の違いというものも、小林秀雄を良く読んでない人はたいてい混同してしまっており、
またほとんどすべての人たちは「大和魂」について新渡戸稲造的なイメージしか持ってない。
一番良くわかっている人でも大野晋、小林秀雄らの説までだ。
こんな具合で「やまとだましい」について正確に把握している「やまとびと」は実はほとんどいないという状態になってしまっている、
というおそるべき結論に達してしまう。

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