小林秀雄 源氏物語

連休だがまったく予定がない。前倒しで仕事を片付けておくというのが一番生産的なのだが、あまりやる気にならない。
最近宣長関連を読んでばかりだったので桜の咲くのが妙に待ち遠しくなった。
「極道めし」を読むと卵かけご飯が食べたくなるようなものだ。
山桜をぼーっと眺めてみようかとも思う。
この際、山鹿素行あたりを一気読みしてやろうかなどとも思うがきりがない。

仕方ないので小林秀雄の「本居宣長」を読み続ける。
ついでにネットでいろんな人がこの本を読んでいる感想を読んでみるのだが、
だいたいみんな私と同じようなこと考えながら読んでるなと思う。
小林秀雄を読みながら宣長全集も読んでいる、という人は不思議とあまりいないようだ。

はっきり言って、まったく読みにくい。十年以上にわたってとりとめもなく書き継がれたものだから、
としか言いようがない。
たとえて言えば神懸かりになって着想の湧くまま筆先の動くままに書いたような、
思いつくままに整理せず書き連ねたというような文章だ。
あるいは意図的に「しどけなく」物語るように、論文というよりは随筆のように書きたかったのかもしれんが、
読んでる方としてはどうか。
どこに何が書いてあるかというくらいで良いので解説があるべきだと思う。
ただこの本はまだ解題や校注付きで出版されるような「古典」ではないというだけだろう。

源氏物語のあたりをまとめて読む。
13から18章までの部分。
宣長どうこうというよりは源氏についての話なので以前は読みとばしてた。
しかし読んでみるとなかなか全体の中でも読み応えのある箇所ではある。
「もののあはれ」を知るということが源氏物語の本質であり、
「もののあはれ」を知るからこそ光源氏はこの物語の主人公として紫式部に取り上げられたのであって、
しかも源氏物語とは本質的には歌物語であって、
そこから導かれるのは男女の間の歌のやりとりこそが「もののあはれ」を知るということだ、となる。
これは歌をあまりにも過大評価した言い方だろうか。
しかし、小林秀雄も

> 詩と袂を分かった小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功していく、誰にも抗しがたい文芸界の傾向のうちに、私たちはいる。

と言っている。
事実、中世では文芸といえば物語よりも詩歌の方が優勢だった。
また物語の中にも歌がふんだんに引用されていた。
平家物語や吾妻鏡ですらそうだし、古くは古事記も、竹取物語・伊勢物語・土佐日記みんなそう。
後鳥羽上皇の時代の文壇といえば、まずは和歌だろう。
小説全盛時代といえる現代ではこのあたりがたぶん感覚的にピンと来ないはずだ。
だいたい、仮名漢字変換で「かがくしゃ」とやると「化学者」「科学者」は出てきても「歌学者」は出てこない。
これほどまでに現代人にとって歌というものはうといものなのだ。

> 「源氏」は、(坪内)逍遙の言うように、写実派小説でもなければ、(正宗)白鳥の言うように、欧州近代の小説に酷似してもいないが、
そう見たい人にそう見えるのをいかんともし難い。

かつて物語は、勧善懲悪や啓蒙教育や娯楽といった何かに役立てるためにあるものだったのが、
西洋の影響を受けた近代小説では、ありのままの人間というものを描写するのが小説の役目ということになり、
現代では源氏物語を「もののあはれ」をありのままに描いた近代小説の先駆として読んでしまうために、
逆に本来の源氏物語の姿から離れている、ということになる。

やはり宣長という人を理解しようと思ったら歌というものを基軸にしなくてはわからんと思う。
歌を文芸の価値の頂点においた人なのだよ。
だから詞の用例を学ぶために古事記の勉強もし、歌のやりとりのされ方を学ぶために源氏を学んだ。
ところが、宣長は古事記の研究もしました。
源氏物語では「もののあはれ」という現代小説に通じる本質を見いだしました。
という書き方をしてしまうと、へえっ。いろんなことをやったんだなくらいにしか思えない。
だいたい宣長について書いた本というのはそんな書き方がされているが、
小林秀雄の宣長本は全体としては歌論書として書かれていて、
宣長は歌学者として描かれている。
ここが小林秀雄が他より理解の度合いが深いと知れる点だと思う。

定家は源氏物語を評して詞花言葉をもてあそぶようなものと言い、
また俊成は「源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり」と言った。
要するに当時は歌があり、詞があり物語があり、
それ以上でも以下でもなかった。その主人公としての光源氏がいて、紫の上との恋愛があって、
歌のやりとりがあって、物語があったのだ、ということになる。
恋愛至上主義でもなければことさら猥褻をねらったわけでもない。
それは別に写実でもなければ現実主義でもなく、
またそれらの思想に基づいて現代語訳された源氏を読んでも、
意味はわからない、というのが宣長の、また小林秀雄の結論ということになる。

そのほかいろんな解釈が紹介されている。

源平争乱の頃にはすでに、上流男女の乱脈な交際の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄に落ちたに違いないので、
供養してやらねばならない、といういわゆる「紫式部堕地獄論」というものがあったらしい。

それから、源氏物語は単なる架空の物語ではなく、歴史的な事実を反映していて、
もとの史実と対応づけることによって源氏物語を再構成し、
その真意を儒仏的に解釈できるという「準拠説」というものもあったらしい。

契沖は、源氏物語の中の登場人物は一人のなかに良い面も悪い面もあり相混じり合っている、
善人と悪人をきっぱりと分けて論じる勧善懲悪に基づく春秋の筆法とは比較できない、などと言っている。

そのほか森鴎外の源氏悪文説(実際には源氏に対する単なる無関心)やそれに対する谷崎潤一郎の反論、など。
私も源氏物語は読んでも別におもしろいとは思えないので、鴎外や漱石が源氏に冷淡だったというのも、
まったく同感で、これから好きになるかどうかもわからない。
正宗白鳥は英語訳された源氏物語を読んではじめて源氏に感動したので鴎外と違ってまったく率直な悪文論者である、など。

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