国造

司馬遼太郎の「歴史と風土」という文章(昭和46年)に、
大化の改新があっても地方の豪族、国造が残った。
だから天皇というのは最初から権力ではなくて権威だった、と言っているのだが、これはおかしな結論だ。
彼は、大化の改新の頃も、平安朝も、その後の武家政権もずっと天皇は権威であって権力ではなかったと言いたいらしい。

しかし、普通は、大化の改新の頃には天皇の権力もまだ完全には浸透しておらず、
地方豪族らを国造という形で中央集権の枠組みに取り込まなくてはならなかったということを言っているだけ、そう解釈するのではないか。
そもそも、大化の改新というのは単なるクーデターと律令制の導入に過ぎない。
それだけで地方豪族が服従するはずがない。

だが、土佐日記の頃になると、国司、つまり守や介らが中央から派遣されて、
国造らもはや存在しない状態になる。
だから大化の改新に始まった律令制というものは次第に地方にも浸透していって、
初期には国造らの地方豪族が残っていたが次第に国府、国司らによる中央集権的支配が確立していった、と解釈するのが普通だろう。

司馬遼太郎のように「だから天皇は最初から権力ではなく権威だった」などという結論が導かれてくるのはおかしい。
wikipedia にも、
国造は律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つ。6世紀代のヤマト王権が任命する地方官、とある。
その通りで、律令制以前のなごりがしばらく残ったと言うにすぎない。
律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗る、とあるように、
例外的に「地方官」として勅令によって残っていた出雲国造も798年にはなくなっている。

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