宿坊

司馬遼太郎は、祇園という町が挙げて長州を贔屓にしていたというのだが、ちょっと妄想入ってるんじゃないか。
長州征伐で京都から排除されてもかまわず匿い続け、鳥羽伏見の戦いで長州の紋の入った旗を見て涙を流して喜んだとか。
まあ、そんな人も居たかもしれないが、京都人全体がそうというのは余りにこじつけが過ぎないか。

確かに、幾松・君尾などの芸妓が居たがそれらが有名なのはたまたま維新が成功して、
政府要人の正妻や妾となり、
明治・大正の頃までそれらの芸妓が生き残っていて、講談などにおもしろおかしく採られたからだろう。
負けた側の記録はその反対にほとんど残らないだけのことだろう。
長州以外の連中も祇園で遊んでいたに違いないし、
長州だけが贔屓にされていたはずもないのではないか。

[勤王芸者](http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886104)
近代デジタルライブラリーで読める。
このjpeg2000のデジタル文書だが、
1920×1200のモニターで、ブラウザ全画面表示で拡大率50%で読むとそこそこ読める、
しかしもっと楽な読み方がありそうなもんだ。

> 侍に勤王佐幕あれば芸妓にもその客種によって勤王佐幕あったもので、長州の侍に馴染があれば、
長州だけで座敷が忙しく、薩藩ならば薩藩の座敷だけで良い加減に忙しいものであったから、
自然客贔屓により、勤王党の芸妓と幕府方の芸妓が出来ていました。

まあ普通はそうだろう。
佐幕派では徳川一橋、会津などが綺麗に遊んでいたという。

> 長州の縄手魚品、薩摩は末吉町の丸住、土州が富永町の鶴屋、新撰組は祇園の一力、

などが馴染みの店、つまり「お宿坊」であったという。

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